ブロンド少女は | 断片の集積

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主にポルトガルでの生活について

久しぶりにポルトガル関連の話題。


昨日、マノエル・デ・オリヴェイラ監督の「ブロンド少女は過激に美しく」を鑑賞してきた。


感想をどのように表現すればよいのかがわからない。とても美しい映像で、慣れ親しんだリスボンの街、言葉、喧騒が映し出され、ストーリーに起伏はあるものの、終始幸せな気分でスクリーンを眺めていることができた。

でも、(複線からある程度の予想はついていたとはいえ)ああいった唐突な終わり方をされたとき、そこから何を感じ、何を思えばよかったのだろうか。それは、もちろん許されないことであるけれど、それを赦すことで始まるもう一つの壮大なストーリーがあるのかと少し期待していた僕にとっては、あまりに唐突な終わり方であったと言わざるを得ない。

今思うと、劇中に引用されたペソアの言葉がとても示唆に富んでいたような気がする。


東京では5日(金)までとのこと。


なんだかんだいって、見る価値はあった。映像の美しさは幸せを感じさせるし、心にざらっとした感触を残すラストだって、幸せな終わり方よりもずっと引きずるもの、残るものは大きい。

それから、本篇が始まる前に14分間のゴダールによる短編が上映された。これは素直に良かった。



さて、「ブロンド少女」鑑賞と同時にドミニク・ペロー展にも足を運んだ。


感じたのは「無秩序なものがある必然性をもって存在しているとき、その建築はとても面白い存在になる」ということ。

今あるもの、簡単に読み取ることのできるコンテクストというものは歴史の中のいつかの時点で人工的につくりだされたものであって、そういったコンテクストに刃向かってみることでできる、既存の都市の形態が崩された形の中から生まれるものもあると感じ、そう感じたのはコンテクストに対して無秩序に挿入されたそれらがある種の必然性を持っていると感じたからで、それはぺローのいう「歴史に対しての地形の優位性」「地形に従う(大地とのセックス)」により生み出された必然性なのだろう。


もちろん、ただ、都市を無視して地形に従えばいいという訳ではないけれど、うまい具合に既存の都市とずれたあるまとまりというのは予想だにしないたくさんの面白いことが生まれるだろうというわくわく感をもたらした。


それからパリに留学しぺロー事務所でインターンしていた東大生が関わっていたという美術館改修のコンペ案はすごく良かったと思う。前に見せてもらったときには特にいいとも思わなかったけれど、今回の展覧会で見たら良いなと素直に思えた。ペロー自身も気に入っていたらしいけれど、それでもコンペを取れないこともあるんだよね。やっぱり、運というか、審査員のモードとうまく合うかっていうのは重要だよなと思う。まあ、いずれにしろ出さないことには始まらないわけだが。


最後に本の話。


帰り路八重洲ブックセンターに立ち寄り、ほしかった本を手に入れた。

A+U2010 11月増刊号「ル・トロネのアルヴァロ・シザ-経路と作品」である。ル・トロネを訪れたときにはあれらのオブジェ(あえてオブジェと呼ぶ)がシザの手によるものだとは思わなかったけれど、大理石をくりぬいて作られた矢印はル・トロネの雰囲気を壊すことなく明確な役割を果たしていたし、進入禁止を示す懸垂ケーブルもそれ自身はル・トロネを鑑賞するうえで不必要な存在感を消しつつも、観光客から建物を守る強力なパーツとなっていた。

そして、この本の後半には(ほぼ半分のページを割いて)シザのプロジェクトの写真とスケッチ、そのプロジェクトに関係する建築家・ジャーナリスト・神父らのエッセイが掲載されている。この本に載っている(一つの住宅を除いて)すべてのプロジェクトの空間を生で体験してきた者にとってはどうしても手に入れておきたい本だったのだ。

まだ、さらっと写真とスケッチを眺めただけであるけれど、文章を深く読みこんだら感じること、発見がたくさんあると思う。そうしたらまたブログに思ったことを書こう。


結局この日は「ベロニカは死ぬことにした」パウロ・コエ―リョ、「見えがくれする都市」槇文彦、「ユリイカ(菊地成孔の特集の号、バックナンバーで安くなっていた)」と4冊もの本を買ってしまった。

「ベロニカ」はあっという間に読み終えてしまった。何度も再読することになるだろう。そういう本だった。


気持ちが前に向かないときに読み返すことで回復できる本というのがいくつかあって、今そうなったときに一番手っ取り早く読めて、一番手っとり早く回復できるのは「虫歯と優しさ」(山崎ナオコーラ、「人のセックスを笑うな」に収録。)なのだけれど、「ベロニカ」はもっと深く悩んでいるときに読むいくつかの本と同じように、読むことで自分の悩みをもう少し深く悩ませるというか、ちゃんと考えるほうに仕向けてくれる本だと思う。


ブログを書きだすと書きたいことがあふれてくるのだけれど、なかなか書こうという気にならないのは日本にはポルトガルの何百倍も娯楽があふれていて、ポルトガルの何十倍もの範囲が生活圏だからだろう。選択肢が多すぎる中でちゃんと取捨選択しなければならないと思うし、そのためには強くならなくてはならない。街にあふれているさらっとした娯楽は瞬間的に幸せをもたらすけれど、真の充実をもたらすことはない。その日の自分に納得して眠りに落ちることが出来たらそれが一番幸せ。


最後に最後に一つだけ引用


少年達よ、どこへ行くのだ。

「それは言えないよ、でもここは嫌なんだ」

なんでだ、どうして嫌なのだ。

「バカだなぁ、大人が用意した場所だからさ」

大人が用意してはいけないのか。

「しすぎてるんだよ、余計なモノまで」

余計なモノとはなんなのだ。

「いらないモノ」

-中略-

「だから探しにいかなくちゃ」

少年達よ、なにを探すのだ。

「場所だよ、自分で用意する場所」

-後略-

(黒・迷子/満島ひかり パピルスvol33より)


これを読んだ時、「あっ、公共空間!」と思った。公共空間ってこういうことだよなって。


ちなみに満島ひかりの書く文章は好き(そういえば小学生だか中学生だかの時、みんながなっちだ鈴木あみだって言っているときにひとり「フォルダー5がいい」って言ってた変な奴がいたけれど、あいつは今の満島ひかりの活躍に鼻高々だろうな)。今回は黒をテーマとしていたようで、もう一つ「黒・そいつ」というすんごくいい短文があるのだけれど、それはまた今度。