日曜の東京 | 断片の集積

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主にポルトガルでの生活について

お世話になったリスボンのクラスメイトにいくつかお礼の品を送るために上野へ赴いた。


同じクラスを選択していた留学仲間とほぼ1カ月ぶりに再会し、アメ横やらデパ地下やらで何がポルトガル人には喜ばれるのだろうかとああだこうだいいながら日本らしい小物やら日本酒やらを買った。

そして、喫茶店で話し込んだりもした。


アメ横は3連休の中日ということもあってかおびただしい数の人で、そこは確実に日本でありながら無国籍地帯であり、鮮度の高いものしかない生鮮食品屋が多いことを理解しつつも何処か少し不衛生な感じもして、とっても人間的な場所だった。

あいかわらずカットフルーツは大人気で、アメ横の店員さん達はバイタリティーにあふれていた。


それだけでも十分に充実した一日なのだが、せっかく上野まで出るのだからと待ち合わせの前にシャガール展へ行ってきた。

そして、買い物を終えてから銀座に向かった。ファストファッションが進出した後の銀座というものをまだ未体験であったし、ZARA・H&Mといった店が日本ではその程度の価格設定で商売をしているのかを知りたかったし、資生堂ギャラリーで開催されている石上純也展も見ておきたかったのだ。


銀座駅を出ると今日は歩行者天国でまたそこにもたくさんの人々が存在していた。

銀座の街は…なんだかだんだんとどこにでもある街に変わっていっているように感じた。ただそれは日本のどこかと通ずる既視感ではなく他国(ヨーロッパ)と通ずるものであった。まあ、元々銀座はウォートルスが銀座煉瓦街大通りを作って初めて歩道と車道が明確に区別されたときからヨーロッパのような街並みだったわけだし、それが日本における銀座のアイデンティティーであって、今まではそれを銀座の魅力と感じていたのに、ヨーロッパに住みヨーロッパの都市を巡り、ヨーロッパが身体感覚として決して遠いものではなくなったという僕自身の変化がそこに既視感を作り出した原因だったのかもしれない。


ファストショップに関して言うと、ZARAはヨーロッパよりも高いなあという感覚、H&Mはいずれにしろ安いなあという感覚。

H&Mにたくさん人が群れていたけれど、向こうで生活していた感覚だとH&Mはオフの時に着て、着倒して、悪くなったらすぐ捨てるという感じ。昔のユニクロに対する日本人の感覚のような。H&Mが日本に入ってきた時は安いしいいなあと思っていたし、ウィーンに旅行した時も「日本で買うよりもさらに安い!」ってH&Mで買い物したけれど、留学を超えた今となってはあまりH&Mで買う気にはならないなあ。質がやっぱりZARAとかユニクロとかのほうがいいし。そうはいってもウィーンで買ったTシャツも留学中に買ったズボンも大切にして着続けてはいるけどね。


さて、で石上純也展の話。

一番気になったのは「余白」という言葉。一番気になったのは「森と街」というプロジェクト。

今の日本の住宅の転換というのは閉じることから開くことへの転換であろう。住吉や中野本町といった名作からアニハウスや森山邸へ。少しずつ解体して明確なパブリックやプライベートのなかった下町の感覚を取り戻そうと。そういった流れをさらに推し進めたところに石上さんのプロジェクトはあるのかなと感じた。ものすごく緩やかな仕切りがあるのかないのか分からないようなニュートラルな感覚。

閉じていることから開いていくことへの転換は都市計画においても行われていかなければならないことで、それなのに団地、ニュータウンときて超高層もいまだ完全に閉じられた世界が形成されている。そういう状況を打破する可能性として「森と街」というのは面白かった。まず樹木の集まりをつくっていくこと、そのうえで樹木の集まり(=森)のヴォイドに都市を計画していくというやり方。森を先に作るというのは価値観を転換するということ。例えば自然の豊かな別荘地ですら、本来は「自然の豊かな」という魅力があるから人が集まってきているのに、資本主義に任せて土地開発がなされ別荘地の拡大が進んでいるという事実。市場原理に任せていると需要があればいくらでも開発は行われてしまう。それは自然がいくら大事でも、いくらそこに価値があろうと自然が自然であるからで、そこがサイトとみなされてしまうからだろう。

でも、もし先に森を作ったら?そこはつくられた場所であり、自然な場所ではないけれど、それが人工自然であるがゆえに森は守られ、都市は森が残した「余白」にしか作られない。閉じる開くの話からはずれてしまった(この話は機会があったらちゃんとまとめよう)けれど、一つの可能性・考え方としてとても興味深い都市計画の仕方だなあと感じた。


さて、(もちろんそうじゃないプロジェクトもあったが)概してどれも、可能な限り儚く、あたかも何もないような境界を求めているように感じた。そしてそれを象徴するような細い足の支えるテーブルに、それを象徴するような模型が並んでいた。ただ、この台、些細な振動でものすごく揺れる。そしてそこに載る模型たちも。

しっかりとした閉じられた箱の中にいるとき、自分が箱の中にいることなど気にも留めない。その箱が自分を守っていようとも閉じ込めていようとも関係はない。でも、その箱が抽象的で繊細になればなるほど箱は「私」に働き掛け、中にいる「私」はその箱のことを意識するようになる。健康な時は何も思わないのに、傷を作ったり、病に冒されたりすると体というものに意識的になるように。

また空間がニュートラルになればなるほどその「外部」というものに意識が向くようになるのではないか。

そんなことを強く感じた。

今年のヴェネチアビエンナーレの作品もそうだが、極限まで存在をなくすことで逆にその存在を強く感じさせるということを意識的にやっているのだとする、これはすごいなあと思う。


いやぁ、消化しきれてない文章。今日は眠すぎる。今度もう一回考えてみよう。でも、今日感じたことを今日書いておくことって自分のために重要なのではないだろうか。


ということでシャガール展についても。

シャガールの圧勝だった。シャガール以外の作者の作品も多かったけれど、これなら「シャガール」を大々的にアピールして宣伝してもよいでしょ。

多くの画家の絵を見ても(それがモディリアーニであろうとゴーギャンであろうと、マティスであろうと)、ただ、それが作風なんだ、としか感じないのだが(もちろん好みはあるし、そう感じるのが悪いとかではなく上にあげた3人の画家はいずれも大好きである)、シャガールの絵を見ると、彼の周りの世界はこういう世界だったんだろうと感じる。それがシャガールの中だけで起こっていることではなく彼の生まれたヴィテブスクをはじめ、その周辺の世界はこうだったんだろうと。

うまく説明できないけれど、浮世絵を見る感覚に似ている。浮世絵は油絵やリトグラフやその他の欧米の絵画とは全く違っている。でもそれを見て違和感も感じないし、当時の日本はそういう世界だったんだろうとただ思うだけだ。あれが真実で、江戸はああいう世界だったと。それと同じ感覚なのだ。だから僕はベラルーシやその周辺のロシアの村で馬の顔が鶏であろうとカップルが空を飛んでいようと何の不思議も感じないし、いまでも

その街を訪れれば、そんな風景が見られるのでは(もちろん現実世界でではないが)と思っている。

そういう感覚を一人きりで作り出してしまうシャガールはすごすぎるって今日改めて感じたのだ(浮世絵はたくさんの浮世絵師の集積によってその感覚が作り出されているから、それと比較すると、ね)。


でもこの感覚って相当伝わりにくいし、この感覚伝わらない人が読んだら相当病んでるって思われるんだろうな。