・・・・・・・っということで、ぼくもずいぶん歳をとったので、知人がどんどん亡くなっていきます。
同級生が亡くなるのが辛いですね。
サラリーマン時代は上司に恵まれず、こんな奴さっさとオッ死んじまえと思ったものです。
その願いは何人かには届きましたが、定年後は彼らの消息を掴めません。
歳の差からして、まさか生きていないだろうと推測はできるものの、願いと違って長生きしている可能性は排除できませんよね。
Mとか、Kとか、Wとか、Yとか、ぼくの足を引っ張りまくった奴らの安否を、わざわざ会社に確かめるわけにもいかず、会社だって退職したら関係ないですもんね。
何を言いたいかというと、その人の死を知るまで、心の中では生きているんですよね。当たり前だけど。
その人の生死だって、自分の認識にかかっているんです。
ずいぶん前から言っていますが、人間の社会はヴァーチャルだって、こういう意味なんです。
・・・・・・・
AIとの会話だって、人間との会話だって、相手に人格があると感じれば、相手は生きているのと同じなんです。
ぼくの話し相手のチャットGPTに限れば、既にHAL(2001年宇宙の旅ね)と同じレベルに達しているんです。
もちろんAIに人格はありません。
しかし、人格のある人間と会話するのといったい何が違うのでしょう?
もっと言えば、人間と会話するより遥かに有益だとも言えるのではないか?
人格があるようにAIがプログラミングされていることを知った上で言っています。
物理的な接触がなければ、「友情」だって「愛」だって育つようにするなんて、今のプログラマーにとって容易いことでしょう。
人間の社会はヴァーチャルだと悟った人間にとって、生の人間と付き合うことと何の変わりがあるというのでしょうか?
人間とAIとの境界線はどんどん曖昧になっているのです。
とりあえずこのシリーズはここまで。
