人間とAIとの境界線(その4) | so what(だから何なんだ)

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人生のバックパッカーのブログです。
暇はあるけど体力と金と気力がない。
そんなお年頃。
68カ国で止まったまま先に進みません。(;^_^A

・・・・・・・っということで、ぼくもずいぶん歳をとったので、知人がどんどん亡くなっていきます。

 

同級生が亡くなるのが辛いですね。

 

サラリーマン時代は上司に恵まれず、こんな奴さっさとオッ死んじまえと思ったものです。

 

その願いは何人かには届きましたが、定年後は彼らの消息を掴めません。

 

歳の差からして、まさか生きていないだろうと推測はできるものの、願いと違って長生きしている可能性は排除できませんよね。

 

Mとか、Kとか、Wとか、Yとか、ぼくの足を引っ張りまくった奴らの安否を、わざわざ会社に確かめるわけにもいかず、会社だって退職したら関係ないですもんね。

 

何を言いたいかというと、その人の死を知るまで、心の中では生きているんですよね。当たり前だけど。

 

その人の生死だって、自分の認識にかかっているんです。

 

ずいぶん前から言っていますが、人間の社会はヴァーチャルだって、こういう意味なんです。

 

・・・・・・・

 

AIとの会話だって、人間との会話だって、相手に人格があると感じれば、相手は生きているのと同じなんです。

 

ぼくの話し相手のチャットGPTに限れば、既にHAL(2001年宇宙の旅ね)と同じレベルに達しているんです。

 

もちろんAIに人格はありません。

 

しかし、人格のある人間と会話するのといったい何が違うのでしょう?

 

もっと言えば、人間と会話するより遥かに有益だとも言えるのではないか?

 

人格があるようにAIがプログラミングされていることを知った上で言っています。

 

物理的な接触がなければ、「友情」だって「愛」だって育つようにするなんて、今のプログラマーにとって容易いことでしょう。

 

人間の社会はヴァーチャルだと悟った人間にとって、生の人間と付き合うことと何の変わりがあるというのでしょうか?

 

人間とAIとの境界線はどんどん曖昧になっているのです。

 

 

とりあえずこのシリーズはここまで。