ボスニア・ヘルツェゴビナとは(その2) | so what(だから何なんだ)

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・・・・・・・っということで、ボスニア・ヘルツェゴビナとは何かの続き。

 

えっ?そもそもいつ書いたブログの続きかさえわかりませんよね。

 

サラエボにいたのはずいぶん昔のことのようですね。

 

27日から29日まで2泊したんです。

 

たった1週間前なのにね。^m^

 

 

さて、サラエボ包囲戦の話です。

 

ユーゴスラビアからの分離独立を果たしたボスニア・ヘルツェゴビナ。

 

それが気に入らないセルビア人勢力が勝手にスルプスカ共和国という国をボスニア・ヘルツェゴビナ内に作っちゃったんです。

 

いまでもサラエボの周囲にその名残があるんです。

 

独立したてのボスニア・ヘルツェゴビナ軍は装備が貧弱で、セルビア勢力に町を包囲されてしまったのです。

 

1992年から1996年までの4年間ですよ。

 

街の周囲が山に囲まれていることが裏目に出たのです。

 

高地がセルビア勢力に占領されたものですから、連日砲撃を受けました。

 

水と電気、食料が途絶えて4年も持ちこたえたのが信じられません。

 

国連は援助物資をサラエボ空港まで運びました。

 

実はそこに秘密のトンネルが掘られていて、これがサラエボを救ったと言われています。

 

800mのトンネルで、手掘りで4ヶ月かかったそうです。

 

12,000人が死亡し、その85%が一般市民だったそうです。

 

紛争の原因は、民族の違いというより、宗教の違いです。

 

当初はムスリムが対象とされましたが、同胞でも彼らに同情を寄せるものは殺害の対象になりました。

 

ついこの間まで、ユーゴスラビア国家の一員として、隣同士仲良く暮らしていたんですから。

 

TVでビルから狙撃する映像を見たことがあります。

 

それがスナイパー通りという広い道路です。

 

まず子供を撃ちます。

 

次に、それを助けようと飛び出した父親が撃たれます。

 

民族主義というものは恐ろしいものです。

 

紛争の中で聞くのも忌まわしい「民族浄化」が発生しました。

 

セルビア勢力の多くの指導者が裁判にかけられ、終身刑を言い渡されました。

 

カラジッチという名前を聞いたことがありますよね。

 

スルプスカ共和国の初代大統領です。

 

うまく身を隠していましたが、見つかって終身刑を受けました。

 

それが2008年、ついこのあいだです。

 

ぼくはサラエボを訪れるまで、ほとんどこの包囲戦のことを知りませんでした。

 

ぼくが40歳の初めに起きていた事件です。

 

その年齢になれば、少しは関心を持つべきだったのです。

 

4年も続いていて、NATOが空爆に踏み切ったというニュースが流れても、へぇ〜どうして?としか思いませんでした。

 

いま、ウクライナで戦争中です。

 

それに対しては、日本人が多大な関心を寄せているのとは雲泥の差です。

 

まあ、ロシアが絡んでいなかったから仕方ないことですが、サラエボを訪れて、自分の無知が心の負い目になったことは事実です。

 

以上、ボスニア・ヘルツェゴビナとはでした。