【秋山仁の放課後無宿】 | so what(だから何なんだ)

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【秋山仁の放課後無宿】
秋山 仁著
朝日文庫
2000年4月1日

暫く海外出張に出ていたので、いつもの通勤電車内読書ができずに間が空いてしまった。
本屋にも行かなかったので、出勤前に子供の本棚を物色し、とっさに選んだ一冊。
著者も秋山って誰だったっけ....っと、扉を開けると例のひげ面でバンダナを巻いた顔を模した朱印が押してあった。
ああ、思い出した、例の数学者だ。でも、なぜ朱印が押してあるのだろう?
推理するに、娘の学校に講師として招かれ、そのときこの本が配布されたのだろう。娘が自主的にこんな本を買うはずがない。

まあそんなことはドーデモいいが、発行年が7年前かァ、古本屋ばかりで最近定価で本を買ってないなァ。とうとう、子供の本まで手を出すほど成り下がったのか.......ってな感慨を持ちつつ、一気に読む。

.....っで、教育論は何年経とうが、永遠のテーマ。7年前の議論はそのまま現在に当てはまる。何も解決されていないとつくづく思う。

以前読んだ、養老孟司も同じ教育者。解剖学者と数学者では同じ教育論でも、書き方がずいぶん違うものだな。
でも、言いたいことは殆ど重複している。
さすが数学者。短い文の中に、無駄なく論点が起承転結で盛り込まれている。外見からは、ハチャメチャのような印象を与えがちだが、書き手としては、相当の力量と見た。解剖学者とは単なる性格の違いだけだろう。

特に印象の残ったのは、ゆとり教育か詰め込み教育か。
今朝の新聞で、たまたま去年の大学1年生からゆとり教育の第一期生が入学してくるタイミングに当たるのだと。
これまで言われていた様に、「学力」は全く低い。さらに悪いのは、勉学する「自主性」がない!
「自主性」っていうのは、ゆとり教育で目指したそのものじゃなかったっけ?
これじゃ虻蜂取らずじゃないか。
これらの学生が卒業していく4年後は、企業もそれなりの覚悟をしてくれというのが、新聞の指摘だった。

いま、慌ててゆとり教育の見直しをしているが、これもまた変な動きと思わざるを得ない。
ゆとり教育を導入したのは、そうすべきという意見が多数を占めていたからそうしたのだろう。
それを、何年も経たずに元の詰め込みに戻すっていう論理も相当お粗末だと思う。
いまの世の中は右か左、白か黒、オンかオフ。全く2進法の考え方しか出来ない。
ゆとり教育が目指したものは、決して間違っていなかったはず。
問題は、教育の現場でそれを実践する体制、ノウハウが出来ていなかったことだろう。
簡単に言えば、末端の先生がゆとり教育を実行するレベルに無かったことだろう。

詰め込み教育かゆとり教育かのドタバタ、その被害者は子供たちであること。

ゆとり教育が問題であることは良く分かるが、それを簡単に方向修正することも大きな問題であろう。
ゆとり教育をやるんだったら、もっと徹底的にやって、結果を出すまで喰らい付くくらいのガッツが教育者にないのだろうか?
その理想とすることは間違いなかったのだから。
逆に詰め込みに戻す方がよっぽど悪いと思う。

この本でも、養老孟司でも指摘されていることだが、どんな教育指針にしようと、先生の人格。同様に、親の人格。世間の人たちの人格に勝る教育はない。子供たちはそれらに対して非常に敏感である。親の背を見て育つっていうのは、自分の経験からしても本当だと思う。

まあ、そんなに悲観することもないともいえる。子供は大人が思っているより余程賢いものだ。

大人がすべきことは、この本でも述べられているように、12歳まで善悪の基準を徹底的に教え込み、あとは子供を信じることしかないと思う。

まさしく、ゆとり教育で育ってきた私の娘を見るにつけ、教育って本当に難しいものだとつくづく思わざるを得ない。

写真は、今回訪問したカンボジアの悪ガキども。寺院の脇にある学校の生徒たち。カメラをぶら下げているとよってくるが、レンズを向けたらパーッと逃げる。思ったより、シャイだ。

近くの川で裸で泳ぐ子供たち。橋の上からカメラを構えると、今度は写してくれとばかりに集まってきて、得意のジャンプパフォーマンスをする。

こういう時代も日本にあったはず。日本がいまいじくり回している教育論とは別の世界の教育がここにはある。なんとも、懐かしく且つうらやましい。