教育論の番外編 | so what(だから何なんだ)

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人生のバックパッカーのブログです。
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そんなお年頃。
68カ国で止まったまま先に進みません。(;^_^A

・・・・・・・っということで、ぼくの教育論の番外編。

例えば、地方に音楽の才能がある女の子がいて、学校の成績が良く、リーダーシップもあったとします。

先生はその子の才能に気づいて、進学校に進むよう薦めたとします。

でも、通うためにはちょっと距離が離れていたのと、古い気質を持った親の理解が得られず、近くの荒れた生徒が集まる程度の低い高校に進学したとします。

結局、その子は大学に行く機会もなく、東京に出て店員となり、悪い男に騙されて結婚しますが、離婚して田舎に戻ってきたとします。

この場合、人も羨むほどの天性の才能は生かされずに埋もれてしまう結果となります。

別に音楽の才能じゃなくたって、どんな才能でもいいんです。

絵の才能だって、数学の才能だって、語学の才能だっていいんです。

これは日本の損失だと残念に思います。

原因は田舎の古い価値観、両親の無理解、教師の執念、そして、本人の自分に対する自己評価の低さにあったのでしょう。

もちろん、才能があれば誰でも成功するとは限りません。

でも、せっかく持って生まれた才能は、生かされるチャンスが与えられるべきです。

ぼくなんか何の才能も持ち合わせていませんから、そういう人を羨ましく思います。

こんな時代の日本に、単に田舎に生まれたという、そして、単に女性と生まれたというだけで、チャンスが閉ざされることがあるとは信じられませんでした。

雇用機会均等とか入試の差別とか騒がれていますが、日本では教育を平等に受ける権利さえ達成されていないのではないでしょうか。

ぼくはこのケースでは、教師の執念が足りなかったと思います。

是が非でも両親を説得するという執念が足りなかた。

この世の中、学費補助とか奨学金制度なんかいくらでも説得材料があるはずです。

こういう才能が、たくさん日本に埋もれているはずです。

子供の才能を発見し、伸ばすのは、教師に課せられた根本的な義務ではないですか。

何か、教育の現場でそれが決定的に欠けているようにしか見えないのです。

ぼくはケチですので、本人が可哀想というより、実にモッタイナイと思うのです。