上杉謙信って | so what(だから何なんだ)

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・・・・・・・っということで、歴史を尋ねて日本のあちこち行くようになりましたが、上杉謙信は後回しになっていました。

 

戦国最強と謳われているのに、何でかなぁ~~?

 

武田信玄、織田信長とやり合って、ぜんぜん引けを取らなかった武将なのにネ。

 

やっぱ、越後という土地柄にあるんでしょうね。

 

だって、京から遠い上に、冬になったら国内に篭っちゃいますもんね。

 

そこで、彼の足跡を辿る前に、謙信ってどんな人物かというイメージをぼくの中で作ってみることにしました。

 

四男坊でとくに家督を継ぐなんて期待されていなかったみたい。

 

それどころか、父には嫌われていたみたいで、オマエ坊主になれと寺に預けられてしまったのです。

 

家督を継いだ兄のほうはボンクラで、最終的には謙信の才能に気付いた周囲から押し立てられた。

 

生涯70回以上戦って、完敗したことがないというのですから、戦争の天才だったのでしょう。

 

なぜ強かったのか?

 

いろいろと言われています。

 

曰く、判断が的確で行動が早かった。

 

曰く、大義名分をはっきりさせ、統率力があった。

 

曰く、情報の重要性に気付き、さまざまな手段を使って情報収集をした。

 

・・・・とか、たぶんその通りなのでしょう。

 

ぼくが着目したのは、彼が幼少のとき城の模型を作って、それで遊ぶことが好きだったというエピソードです。

 

今でいうゲームオタクだったんじゃないかと思うんです。

 

命のやり取りをゲームとして捉えるというのは、才能だと思うんです。

 

だって、人が死ぬと思ったら判断に情が入っちゃうじゃないですか。

 

次に特徴的なのは、彼はほぼ毎年国境を越えて外で戦争をしていたことです。

 

何故でしょう?

 

どうも越後という地域は内乱で明け暮れていたようなのです。

 

ぼくが思うに越後は豊かな国だったからじゃないでしょうか。

 

まず頭に浮かぶのが米です。

 

今でも新潟といえば米ですよね。

 

さらに、商業で栄えていた。

 

これは、以前新潟を旅行して、豪農とか豪商が多いことを知ったのです。

 

関東は実は交易には不向きな土地なのです。

 

東京湾が良港なのは分かっていますが、太平洋側でしょ?

 

当時は交易といえば日本海側だったのです。

 

北前船の寄港地は殆ど日本海側です。

 

関東に入ってくる商品の陸揚げ港で一番近いのが新潟なんです。

 

そういう意味で、力のある豪族が沢山いて、それぞれが覇を争うのは当然ですよね。

 

そこをまとめなきゃならないのが謙信の役目だったのです。

 

彼が生涯心を砕いたのは、国内をどうやってまとめるかだったでしょう。

 

国内の不満を抑える方法は今も昔も変わりません。

 

外に敵を作ることです。

 

敵を作って、そちらに目をそらしてしまうのです。

 

幸い、彼にはうってつけの外敵には事欠きませんでした。

 

一向一揆の盛んな越中、最強のライバルの信玄がいる甲斐、そして下野、上野(こうずけ)、そして北条氏がいる関東ですね。

 

もちろん、侵略戦争とは言わなかったでしょう。

 

防衛のための戦争だと言ったに違いないのです。

 

だからこそ、大義名分=義の戦いを大事にして毘沙門天を旗印にしたのです。

 

もちろん毎年戦いができるのも軍資金=領地が豊かであったからです。

 

その証拠に、彼が死んだ途端、血を血で洗う跡目騒動が起きたのです。

 

謙信でよく取り上げられるのが、妻を持たなかったこと。

 

したがって子孫は残しませんでした。

 

戦国時代の武将にしては、異例ですね。

 

これについては興味本位でいろんな説が存在します。

 

中には彼は女性だったなんて、とんでもない説も飛び出すくらい。

 

ぼくには分かりませんが、やはりオタクっぽさを感じてしまうのです。

 

彼は48歳という若さで急死してしまいます。

 

しかもトイレで。

 

死因は脳溢血に間違いないようですが、大酒飲みだったことが原因のようです。

 

高血圧に糖尿病ですね。

 

謙信とぼくとはまったく似ていませんが、唯一の共通点ですね。(^^ゞ

 

これまでの要素で出来上がったぼくの中の上杉謙信像:

 

国内をまとめることで忙殺された大酒飲みのゲームオタク・・・ですかね。(^^♪