・・・・・・・っということで、もうひとつのテーマであった隠れキリシタン。
平戸⇒長崎⇒島原⇒天草と巡ったのですが、特に長崎の出津(しつ)地区が良かった。
遠藤周作文学館がある場所ですが、あそこに1週間くらいじっくり腰を据えて村人たちと交流できれば、このテーマについてはかなりの収穫があるはずです。
ほとんどの村人が隠れキリシタンの末裔です。
聞いていると、ついこの間の出来事のように話してくれます。
小説と映画【沈黙】で描かれた、なぜ隠れキリシタンは250年の過酷な取締りをかいくぐり生き残ることが出来たのか?
この謎に、一つの回答をぼくは得ることが出来ました。
それは「幼児洗礼」です。
ヨーロッパを旅行していたとき実際にその場面に遭遇していたので、どういうものかは知っていました。
しかし、今回そういう単語があることを村人から聞いて初めて知りました。
出津のオバチャンもオジチャンも、天草のオバチャンも、幼児洗礼を受けたと言いました。
もちろん両親の意思でわが子をクリスチャンにすることです。
天草のオバチャンは、それに対して両親に感謝していると言いました。
「幼児洗礼」・・・・この言葉にずぅ~っと引っかかっていました。
隠れキリシタンが生き残り続けたのは、この幼児洗礼が原因ではないかと思ったからです。
メンドクサイことを言えば、これはオカシイと思うのです。
子供から宗教の選択の自由を奪うからです。
もっとメンドクサイことを言えば、憲法の宗教の自由の精神に反しているのです。
・・・・・・・
映画でも小説でも、そして現実でも、棄教でなく殉教を選択する信者がたくさんいるという事実。
ぼくなんか、さっさと絵を踏んじまえよ、その代わり心の中で赤い舌を出せばいいじゃんと考えます。
だって、生きながらに焼き殺されちゃうんですよ。
宗教のために死を選ぶなんて、到底理解できないですよね。
もし、自分の意思でキリスト教を選択したなら、棄教はそれほど難しくないと想像します。
自分の選択が間違っていたかもしれないという考えが入る余地があるからです。
しかし、生まれながらにクリスチャンではそうは行きません。
クリスチャン以外の生き方を知らないからです。
しかも、両親が良かれと思ってクリスチャンにした。
親が殉教するなら、子はそれに従うしかないでしょう?
よくもまあ、隠れキリシタンたちは迫害に耐えて生き残ったものかと考えてしまいますが、幼児洗礼が続く限りキリシタンたちは途絶えることはないのです。
もし途絶えさせるとしたら、まさに皆殺しにしなきゃならないのです。
・・・・・・・
遠藤周作は12歳のときに伯母と母の影響で洗礼を受けました。
本人は、キリスト教のことは何も知らずに受けさせられたと答えていますが、少なくとも12歳のときに「自分の判断で」洗礼を受けたのです。
彼は真摯なクリスチャンだと思いますが、洗礼を受けた後にキリスト教について数多くの疑問を抱き、その回答を求めることになります。
ぼくは無神論者だけど、彼の気持ちが痛いほど分かります。
沈黙の中で数多く発せられるキリスト教への疑問と葛藤。
もし、彼が生まれながらにクリスチャンだったとすれば、沈黙という作品は世に出ていなかったことは間違いないでしょう。
・・・・以上、隠れキリシタンについて。
・・・・・・・参考として、キリスト教の中でも幼児洗礼を認めている派と認めない派に分かれていることを申し添えておきます。