・・・・・・・っということで、映画【沈黙】のテーマは、その題名が示すとおり、なぜ神は沈黙を守るのか?
・・・という素朴な?でも、ある意味とても基本的な疑問に真正面から向かい合うことです。
磔になったキリシタンたちが断末魔を迎えるにあたって、神に向かって祈ります。
その祈りは神に届いているのか。
命を代償とするほど深い信仰心を持っているのに、答えてくれたっていいじゃないか。
奇跡が起きて助かることまでは願わなくとも、お前は天国に行けるのだと保障してくれなくとも、少なくとも「オマエの祈りはシカと届いているよ」と答えてくれないのか。
キリシタンがつらい拷問に遭っているのを目撃しているパードレ(司祭)自身もそのことに疑問を持ちます。
「なぜ神は沈黙を守るのか」・・・・・・
無心論者のぼくだって疑問を持つのだから、信者であった遠藤周作の疑問は無邪気と思えるほどストレートです。
命よりも価値が上の神という存在。
そんなもの信じる意味があるのだろうか?
信じるだけ損じゃないか。
すると、キリスト者は言います。
神の御技というものは、人間が到底計り知ることができるものではないと。
神がお与えになる試練は、全てにおいて意味があるのだと。
だから、余計なことは考えずに受け入れよ。
神が沈黙することに文句を言うな。
うぅ~~~~ん、なかなか上手いロジックですね。
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しかし、よぉ~~く考えてみると、この疑問は当然のことであるのです。
いや、疑問を持つことは権利でさえもあるのです。
神は、この疑問に答える義務がある。
ここからは日本人にはなかなかピンとこないのですが、実はキリスト教において信者になることは神と「契約」を結ぶことなのです。
契約を結んだからには、双方がギブアンドテイクの間柄になる。
ローマが途中からキリスト教を受け入れ、キリスト教の軍であることを示す「XP」の軍旗を掲げたのは、キリストを信じる代わりに戦いに勝利させてくれという契約があるからなのです。
個人レベルでも同じです。
キリストを信じるから、生活上で何らかの見返りがあってしかるべきだと考えているのです。
たとえば、告解あるいは懺悔(コンヒサン)をしますが、許されることによって罪の意識で苦しむことを取り除いてくれます。
これが信じることの見返りのひとつです。
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遠藤は当然の疑問を投げかけたのですから、次は神が答える番です。
沈黙を守ることは神が義務を果たしていないことなのです。
いろいろな祈りがあるでしょう。
金儲けをさせてくれとか、合格させてくれなんていう祈りもあるでしょう。
しかし、命がかかっているときの祈りには真剣に答えてくれなきゃ困る。
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次は祈りをテーマにします。
つづく。