・・・・・・・っということで、映画【沈黙】で印象的なシーンに「踏み絵」があります。
小学校の教科書でも出てきますよね。(今は知らないけど。)
子供なりにその絵を見て、なぜキリシタンたちは踏めなかったのだろうと疑問に持ちました。
踏むという行為と信仰という心の繋がりがそれほど強いものだと感じられなかったのです。
ましてや、踏まないと命の保証はなくなる。
踏んじゃえばいいじゃんと誰でも思うでしょ?
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映画の中で信者からパードレ(司祭)が問われ、踏んでもいいと許可するシーンがあります。
もう一人のパードレはそれに不満なのですが。
許可された信者たちは、躊躇しながらも踏みます。
これで許されて開放されるだろうと安心したところで、代官が「踏むときに心の乱れがあったゾ」とイチャモンをつけるのです。
そこで、ぼくを含めた観客は気付くのです。
踏み絵は踏むという行為そのものを見ているのではなく、心の乱れを見ているのです。
バカバカしいと思っていた踏み絵は、実は優れた判定装置だったのです。
すると、代官は十字架を出して、唾をかけろと命じます。
さらに、マリア様は淫売だと言えと畳み掛けるのです。
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プロテスタントやイスラム教徒から見れば、だから偶像崇拝はダメなんだ、邪道なんだと非難するかも知れません。
しかし、踏み絵を踏めずに命を落としていったたくさんの人たちのことを想うと、複雑な気持ちにならざるを得ません。
彼らの信仰はそれほど深く、真剣だったのではないですか。
命より信仰を守ったという行為にどれほど勇気が必要だったことでしょう。
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映画では、ついに主人公であるパードレも転びます。
転ぶということは棄教するということです。
彼が踏み絵を踏むシーンはとても印象的に描かれていました。
それこそが映画のクライマックスだったのです。
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偶像崇拝について、2回に分けて書きました。
ぼくが言いたかったことは、山頂に至る道はいろいろあって、どの宗教も目的は同じだという言葉をもう少し真剣に考えてみませんかということです。