キリスト教を理解する試み(その4) | so what(だから何なんだ)

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・・・・・・・っということで、偶像崇拝の問題。

キリスト教にかかわらず、宗教には偶像崇拝が付きものですね。

多神教の場合は、偶像崇拝はごく自然の行為であって、なんら問題にはなりません。

八百万神の国である日本は、あちこちに神が宿っていて、街角ごと、辻ごとに偶像が祭られていて、生活の中に溶け込んでいます。

実に自然であり、無理のない信仰形式です。

しかし、一神教となると偶像は実に厄介な存在になってしまいます。

神そのものを描くことができるでしょうか?

一応男性のようなイメージですが、本当はそれさえも分かりません。

どんな顔をしているのでしょうか?

文字通り神は唯一のものであって、神と信者とはダイレクトに繋がっていなければなりません。

その間に余計なものがあっては邪魔なだけなのです。

人間が描いたり、造ったりした途端、神ではなくなるのです。

実は名前さえもないのです。

ヤハウェなんて呼ぶことさえも許されないのです。

主であって、神であるだけなのです。

偶像崇拝を認めると、偶像そのものが神になりかねません。

それを認めると、司祭などの聖職者を崇拝するようになってしまいます。

イスラム教は徹底的に偶像を排除しています。

その徹底振りはイスラム寺院を見れば分かるでしょう。

偶像は一切見当たりません。

あるのは文字だけです。

ムハンマドを描いた絵を見たことがあるけれど、顔は描かれていません。

ユダヤ教もシンボル的なものはあるけれど、偶像はないはずです。

唯一キリスト教だけは偶像崇拝に関して妥協したのです。

聖書でも偶像崇拝を禁止しています。

なのに、キリスト教はそこに目を瞑った。

なぜか?

信者を獲得して広めたかったからです。

十字架を拝み、マリア様を拝み、絵画や彫像を拝み、十二使徒を拝み、イコンを拝み、聖職者を拝むことを許したのです。

それほどキリスト教は勢力を広げることに重点を置いたのです。

なぜか?

ぼくは、世界中をキリスト教一色で染め上げようとしたからだと思うのです。

なぜか?

全人類を救おうとした?

全人類を支配しようとした?

・・・・・・・

こうして見ると、キリスト教は内部に大きな矛盾を抱えています。

突っ込みどころ満載です。

信者を増やすためには見境いなしという感がします。

お気づきのように、これまでカソリックとプロテスタントをごちゃ混ぜに論じています。

プロテスタントはカソリックを邪道だと非難します。

ぼくはそれについてとやかく言うつもりはありません。

少なくとも、宗教そのものとしてイスラム教に負けていると感じます。


・・・偶像崇拝についてはまだ書き足らないので、つづきます。