北前船の謎(その2) | so what(だから何なんだ)

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人生のバックパッカーのブログです。
一日に数本書いていますので、遡って読んで下さいね。

・・・・・・・っということで、北前船がなぜ北から上ってこられたかへの回答です。


これはあるヨット乗りのレポートが大きなヒントになりました。


そもそも論から始めます。


北前船という名前が示すとおり、なぜ太平洋航路ではなく日本海航路だったのか。


もう一度日本海を取り囲む海流をご覧ください。

 



太平洋側は南から黒潮、北からは親潮の二つの海流が流れています。


ぼくが船に乗っていたときも経験したのですが、これはとても強い流れなのです。


まるで川のようです。


ヨットでハワイに単独で乗り出した堀江氏は帰ってくるときは、飛行機に乗って帰ってきました。


逆は辛いのです。


なぜならこの二つの海流が日本列島に到着する船の前に立ちはだかるからです。


ハワイから長い航海を経て日本列島を前にして、黒潮によってまた太平洋側に押し帰されるからです。


ですから、この部分はエンジンの力を頼るしかないのです。(もちろん帆走でも黒潮のずっと上流から入ることも出来ます。)


下手をすれば太平洋に押し流されるような太平洋航路は、原始的な和船では危険すぎるのです。

 



・・・・・・・


では、日本海側はどうでしょう?


ニュースでも良く聞きますよね。


北朝鮮の船が漂着したってニュース。


ゴミだって、中国や朝鮮半島の連中が勝手に投棄するものだから、山ほど日本海側にやって来て、大変な迷惑をこうむっています。


そうなんです、放っておいても日本海側の航路は日本列島が受け止めてくれるのです。


太平洋側と比べて圧倒的に安全なのです。


そこで、北前舟の航路をもう一度詳しく見てみると。

 

上りの寄港地は下りに比べて圧倒的に多い。

 

しかも、海岸線の近くしか航行していません。

 

これは、どういうことか分かりますよね。

 

その日の風の具合を見ながら、タイミングを見て少しずつ西進するのです。

 

もちろん寄港地が多いということは、積荷の揚げ降ろしがあったはずです。

 

日本海側に圧倒的に交易で栄えた港湾都市が多いのも納得できます。

 

・・・・・・・

 

以前青森県を旅行したときは、まったくテーマになかったのですが、今回はその港湾都市のひとつである十三湊に興味を持ちました。


【十三湊】

 

 

天然の良港のため、鎌倉時代から北海道のアイヌと和人との間の交易拠点だったそうです。

 

目の前があの松前藩ですからね。

 

一時期は土砂が堆積して機能が低下したそうですが、16世紀後半から再び北前船のルート上にあって、蝦夷地へ向かう船の寄港地として、米や木材の積み出しなどでも栄えたそうです。

 

朝鮮半島との交易もあったとか。

 

ご存知でした?

 

面白いですよね。

 

行ってみたくなりますよね。^m^

 

 

次は、もうちょっと詳しくルートを見ることと、交易の荷物は何であったかです。

 

・・・・・・・つづく。