・・・・・・・っということで、北前船が何を運んでいたかということに移ります。
こういうときにインターネットは便利ですよね。(^^♪
【下り荷(北国方面)】
蝦夷地の人々への日常生活品(酒類・飲食品類・衣服用品・煙草)、
瀬戸内海各地の塩(漁獲物処理に不可欠)、
紙、砂糖、米、わら製品(縄・ムシロ)・蝋燭(原産地は瀬戸内)
米・酒など
【上り荷(畿内方面)】
鰊粕(商品作物栽培のための肥料)、
数の子、身欠きニシン、干しナマコ、昆布、干鰯など。
特に昆布は大坂から薩摩を経て、沖縄経由で中国にまで密輸出された。
(コンブとの交換で漢方薬が輸入され、富山藩が扱っていたそうです。)
(出典:Wikipedia)
白老のポロトコタンで説明する人が「コンブ」って、アイヌ語だったこと知っていますか?と誇らしげに語っていたのを思い出します。
(ちなみに女性雑誌の『non-no』はアイヌ語で、「花」という意味だそうです。)
正直ぱっとしないですよね。
アイヌ相手に命をかけて交易したにしては、積荷の内容がパッとしない。
この貿易ルートにはまだ別の理由がありそうです。
・・・・・・・
それは、アイヌとだけの交易だと狭い範囲で北前船を捉えているからです。
日本海側の海上ルートは単に北海道との交易だけが目的ではなかったのです。
技術と経験を積む過程で、北海道まで行くことができるようになったというのが正しい解釈でしょう。
ひとつの重要な例を挙げます。
「例年70,000石以上の米を大阪で換金していた加賀藩が、寛永16年(1639年)に西廻り航路で100石の米を大坂へ送ることに成功したのです。」
その航路を開発する以前は加賀藩はどういうルートを使っていたのでしょうか。
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昔から大阪は日本の台所といわれているように、全国の生産物が大阪に集まってきていました。
日本海側の産物(文字通り島根鳥取も含め)は若狭湾に集結します。
そこから琵琶湖を経て、淀川水系を通って大阪に届けていたのです。
琵琶湖から大阪に至る水路の整備は古代、秀吉の時代、家康の時代と、その時々の為政者の大きなテーマとなっていたのですね。
ちなみに、政治の「治」という文字は、さんずいが付いているとおり水を治めるという意味があるそうです。(雑学ですがね。)
要するに陸路と水路を通るので手間と費用と商品のロスがかさむのです。
加賀藩は関門海峡を通過し瀬戸内海を渡る西回り航路を開発したのです。
これによって、北前船の有効性が見出されたというわけです。
すなわち、米に限らず日本海側の農産物や工芸品が北前船の主たる交易品目になったのです。
ねっ!面白いでしょ?
・・・・・・・
次は、北前船を運行していた船主の話です。
おっと、その前に北前船の構造についてちょっと触れておきます。