大月の人は怒っています | so what(だから何なんだ)

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人生のバックパッカーのブログです。
一日に数本書いていますので、遡って読んで下さいね。

・・・・・・・っということで、これまで武田勝頼の最後の足跡を辿って、

 

天目山=勝頼一家が落ち延びて自決した場所

 

新府城=勝頼が立てこもるために新築した城であり、落ち延びる直前まで滞在していた城。

 

・・・と来ましたが、今日は、

 

岩殿城=部下の小山田氏の居城。新府城を捨てて、落ち延びる先の難攻不落の城。

 

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本来なら清里から東京に向かうのは、須玉ICから中央高速に乗って帰るのが定番ですが、今日は一般道を使って大月に抜けることにしました。

 

一般道とは、甲州街道。

 

狭いクネクネ道で、旧笹子トンネルを抜けて大月に出る道です。

 

中央高速道が出来る前はこんな細い道を通っていたんですね。

 

勝頼の時代、トンネルなんかなかったので、馬か徒歩で峠を抜けるしかなかったのですが、当時はとんでもない険しい道だったはずです。

 

一般道を車で走っても、清里から大月までは2時間もかかってしまいました。(高速を使えば自宅まで2時間です。)

 

逃げ延びる一行の中の側女たちを目撃した記録によると、足を血だらけにして疲労困ぱいしていたとのことですが、よく分かる気がします。

 

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NHKの大河ドラマ「真田丸」の初回で、落ち延びる勝頼一行を小山田信茂が関所を閉め追い返す場面を描いていたのを覚えている人は多いでしょう?

 

要するに小山田は裏切り者なのです。

 

恩人である武田信玄の息子を裏切った、憎き人物と描かれています。

 

調べてみると、小山田は武田二十四将の一人です。

 

 

これが岩殿城です。↓

 

甲州街道を東京に向かって大月に入ると左側に岩山が見えます。

 

 

人間が作ったというより自然の要害です。

 

 

谷間を通る旧甲州街道を、上から見下ろす絶好の位置にあります。

 

城を築くために特に何も必要ありません。

 

人間が通る道を付ければいいだけです。

 

↓登る途中から眺めた大月市街。

 

 

中央高速道路も真下を通過しています。

 

 

市営の無料専用駐車場があるのですが、なぜか満車でした.。

 

駐車場の脇に2台ほど停められる路肩がありそこに停めました。

 

登山道入り口から10分ほど歩けば、「岩殿ふれあいの館」という、小さいけれど気合の入った建物があります。

 

たった10分でも、急勾配で汗だくになること間違いなし。

 

 

2階は無料です。

 

↓そこからの眺め。

 

本来なら、富士山が見えるそうです。

 

 

乃木希典も登山したらしく、彼の記念碑が建っていました。↓

 

 

ちなみに、ここから山頂まではゆっくり歩いても30分ですが、今日は曇っていたので止めました。(^^ゞ

 

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さて、問題は小山田です。

 

ぼくも最初、彼は卑怯な裏切り者だと信じて疑いませんでした。

 

本格的な新府城に勝頼たちに立てこもられれば、攻める織田・徳川連合軍は相当苦労するであろうことは、実際に城を見て分かりました。

 

連合軍側は多くの犠牲を払いたくないので、小山田に寝返りを仕掛けます。

 

謀略に乗った小山田は、勝頼をおびき出す役目を見事に果たしたというわけです。

 

世間一般も、この小山田裏切り者説で通っています。

 

しかし、この説には不可解な点があります。

 

それは、後に織田側から「主君を裏切った不忠義者」という理由で、甲府の甲斐善光寺で処刑されているのです。

 

オカシイでしょ?

 

謀略を仕掛けて寝返ったのですから、織田から見れば小山田は功労者であるはずです。

 

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岩殿ふれあいの館の受付はオッサン一人で超ヒマそうでした。

 

そこで、小山田について質問してみました。

 

オッサンが言うには、大月の人たちは皆怒っているそうです。

 

NHKであのような描き方をされる以前から、世間一般からは小山田=裏切り者というレッテルが貼られているが、それは間違っているのだそうです。

 

武田二十四将の一人に数えられていた彼が裏切り者であるはずがない。

 

本来の彼は、忠義の人に間違いはないと大月の人たちは信じているのだそうです。

 

そこで、ぼくが寝返ったなら、首を刎ねられるはずがないですよねというと、我が意を得たりとばかりに滔々と「勝頼影武者説」を述べ始めたのです。

 

戦国時代は影武者がいてアタリマエの世界でした。

 

そういや、黒澤明の【影武者】っていう映画がありましたよね。

 

あれって、まさしく信玄の影武者の物語ですよね。

 

ぼくが、「だって勝頼の首は京都で晒し首にされていたんですよ」と言うと、勝頼は四男だったから顔を知る人は少なかったと、マトモな反論をするではないですか。

 

勝頼は生き延びて、なんと四国の土佐(高知県)まで行き着いたとの研究発表がつい最近なされたというのです。

 

そのネットの記事を印刷したものまで見せてくれました。⇒武田勝頼土佐の会

 

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郷土愛っていいものですね。

 

2階にある説明書きにも、彼は領民を助けるために自らの命と交換したのが真実だと書かれていました。

 

新府城を捨てたのも、いくら優れた城だとしても守る人数が足りなければどうにもならないからだったのですね。

 

いくら岩殿城が難攻不落といえども、囲まれてしまえば何年も篭城することなんか不可能なのですよね。

 

以上で武田勝頼の最後を辿る旅を終わります。

 

 

 

何度も書きましたが、歴史って勝者が書くのが歴史であり、実際に行って見てみなきゃわからない・・・ですね。(^O^)/