芥川シリーズ | so what(だから何なんだ)

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・・・・・・っということで、芥川シリーズの読書感想文の8作目から。

【或日の大石内蔵助】

これは赤穂四十七士が討ち入りを果たし、ご沙汰が出るまで各自がお預かりになって、収容先でのんびりしている場面を描いている。

彼らの中から討ち入りに参加しなかった同志の悪口が出てくる。

内蔵助の忍耐の日々を賞賛する声が聞こえてくる。

だが、内蔵助自身は世間の目を眩ませる意味ではあったものの、あの芸者遊びをした放蕩の日々を懐かしくないといえば嘘になると心の中で独白する。

そんな、人間の心の弱さ、誰にでも付け入られる隙があるということが描かれている。


【戯作(げさく)三昧】

江戸で流行った戯作の作家のつぶやき。

芥川などの文筆業も含め、創作者あるいは芸術家が必ず陥るジレンマを正面から捉えている。

芸術家はオリジナリティーが命である。(小説家も芸術家としてしまおう。)

模倣はサイテーである。

ましてや佐村河内は模倣さえも出来なかったのだから、サイテー中のサイテーである。

ところが、完全なオリジナリティーはあり得るのか?というジレンマ。

結局のところ、先駆者の後を追って自分の作品を世に出すのだから、少なくともヒントなり、技法、作風は先駆者から影響を受けているのがアタリマエである。

例えば、印象派の作品には共通点が見出されるではないか。

完全なオリジナリティーは存在しないといってもいいだろう。

そこで、この戯作者は悩む。

大いに悩む。

いままで書き進めていて、世間からも好評を獲得している作品を読み返して、書き直さなければと焦る。

だがその夜、ひとたび文章を書き進めだすと、神が憑依したかのようにどんどんと筆が進むではないか。

それは、彼が真摯に悩んだ結果なのである。

芸術とはそういう本気の悩みが裏になければならないということではないだろうか。


【蜘蛛の糸】

芥川の中では一番有名な作品じゃないだろうか。

日本人でこの物語を知らない者はないだろう。

ぼくも、小学校だったか、中学校だったかの時に授業でこれを読まされ、読書感想文を書いた。

どんな感想文を提出したか忘れたが、結構好評だったことを覚えている。

還暦を過ぎて、もう一度自らこの読者感想文を書くなんて。

超短編ではあるものの、沢山の突っ込みどころのある作品だから、小学生でも様々な角度から感想文が書ける。

教材としてはとても優れた作品だろう。

素直な読み方では、後からよじ登ってくる罪人たちを蹴落とそうと考えたカンダタの心の動きが最後の望みを自ら断ち切ったと解釈するだろう。

そこから、人間のエゴの醜さに読者は思い至るのである。

まあ、こんな感想文を書けば先生から合格点は貰えるだろう。

だが、ちょっとひねくれた人間ならば、カンダタの気持ちになるのはアタリマエだと思うだろう。

そう思わないほうがオカシイのである。

お釈迦様はそんなことは最初から見抜いていたはずである。

罪人でなくとも、人間とはそういう生き物なのだ。

ならば、お釈迦様は最初からカンダタを救う気なんて全くなかったということになる。

朝の散歩のついでに、人間どもを弄(もてあそ)んでみただけなのだ。

すると、お釈迦様って嫌なヤツとなる。

いやいや、お釈迦様はそんな嫌なヤツでないという反論が出るだろう。

すると、カンダタを救ってやろうとする気が本当にあったとしたら、カンダタ以外に何千何万という罪人が天国によじ登ってきてしまうではないか。

その場合の責任をお釈迦様は取るつもりだったのだろうか?

すると、お釈迦様って案外無責任なヤツとなる。

・・・・・・

歳をとると、素直に御伽噺を読めなくなるものである。

悲しいことである。

とりあえず、芥川の視覚的な表現でも楽しもうではないか。