こうやってまとめると、歴史が良く理解できるからなんです。
まあ、付き合って読まされる方はいい迷惑でしょうがね。
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さて、お次の古戦場は【和田塚】。
鎌倉駅から南に由比ヶ浜方面に下る江ノ電沿いにある。
ちょっと歩くことになるが、この頃になると昼食抜きの老人にはちょっと疲れが出てくる。
途中、「六地蔵」を発見。
謂れはさっぱり判らないので、ネットで調べてみると・・・
なんと、昔の刑場跡だった。(@_@)
ぼくには霊感がないけれど、霊感を持っている人は鎌倉は歩けないだろう。(>_<)
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ここが【和田塚】↓
和田家に関してはちょっと詳しい。
なぜなら太宰治の「源実朝」を読んだばかりだからだ。
和田家は頼朝からの忠臣で、有力な御家人だった。
・・・っということは北条氏にしてみれば、ライバルになる。
ところが、和田家の息子と甥が先に書いた比企家事件の時、比企側に加勢したのである。
既に北条氏は言いなりになる実朝の執政として実権を握っていた。
その息子と甥をそれぞれ刑罰に処したのであるが、二人の刑の重さに差があった。
それを不服として、なんと和田家は北条氏を葬り去ろうとクーデターを起こしたのである。
そのとき和田家に協力を約束したのが、三浦家である。
もう忘れたことと思うが、あの【白旗神社】で一族500人が自害した、あの三浦家である。
あろうことか、クーデターぎりぎりになって、三浦家は北条氏に計画を密告したのである。
それでも、和田軍は将軍の館を襲ったのであるが、執政であった北条義時は密告のお陰で逃れてしまう。
時間が経つうち形勢は逆転して、和田軍は前例のとおり全滅させられてしまう。
後世、このあたりを工事で掘り返してみると、おびただしい人骨が出てきたそうだ。
もちろん、子供たちもここで命を落としたことだろう。
↓小さな仏像が涙を誘う。
こうして、比企家、和田家、三浦家と有力な家系は次々と北条氏の策略で抹殺されてしまったのである。
三浦家の滅亡によって、北条氏の独裁政権は完成を見るのである。
時に1247年のことであった。
まあその後、北条政権も86年後の1333年には滅んでしまうのであるが。
鎌倉の歴史は、なんともやりきれない物語の連続である。
・・・・・・つづく。