【言葉】について | so what(だから何なんだ)

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人生のバックパッカーのブログです。
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そんなお年頃。
68カ国で止まったまま先に進みません。(;^_^A

・・・・・・・っということで、最近ときどき考えていること、


それは【言葉】です。


考えてはいるんですけれど、なかなか考えがまとまらない。


まあ、結局まとまらないことは何となく見えているのですが、


まとまらないまま書いてみます。


・・・・・・


【はじめに言葉ありき】・・・コレは新約聖書の「ヨハネによる福音書」に出てくる言葉です。


聖書というと「創世記」に(神が)【光あれ】というと光が出来、


同時に「闇」が出来たという記述とよく混同されますが、


興味深いのが「この世の始まり」に先ず【言葉】が一番最初にあることです。


だって、神が【光あれ】という【言葉】を発したのですから。


・・・・・・


キリスト教的考えは、「物事には全て始まりと終わりがある」というものです。


現代人はこの宗教の影響が強く、ほとんどの人がそう考えています。


コレとは対照的に仏教は「始めも終わりもない」というのが基本です。


ぼくはどちらかというと、仏教的な考えが最近気に入っているのですが、


【はじめに言葉ありき】という考えはもの凄く好きです。


・・・・・・


言葉を持つのは人間だけです。


こう言うと、「イヤ違う、動物だって言葉を持っている」と反論されます。


その証拠にイルカの例を出して、彼らが高度な会話をしていると主張します。


犬だって人間の言葉を理解するじゃないかとか、鳥だって「会話」するとさえ言い出します。


確かに彼等は情報の交換はしますが、それは会話ではなく「信号」のやりとりだとぼくは考えます。


数種類の信号は持っているかもしれませんが、それは言葉とはいえません。


(動物に感情はあるとは思いますがね。)


・・・・・・


さて、言葉とはなんでしょう?


それは、【分ける】ということだと思うんです。


分けるとは、目に映った物を例えば石と木に分ける。


木と草を分ける。


枝と幹と分ける・・・・・・


要するに、言葉を使うことによって、細かく分類するのです。


分類したまま、それを記憶する。


動物にとって、草を見た場合、食べられる草と食べられない草に分類する程度です。


わざわざ言葉によって分類する必要はないのです。


・・・・・・


そして人間は言葉によって果てしなく分類していく。


細かく分類していくけれど、大雑把にも分類していく。


例えば、山といえば、低い山も高い山も大きさも場所も違っても山という一つの言葉でくくる。


赤いイチゴと赤いりんごを見せられたら、動物は全く別物と思うけれど、人間は赤いという色で共通点でくくることが出来る。


そういうふうに目に映る外見だけではなく、「概念」によっても整理する能力が人間には備わっている。


このブログで何度か取り上げた「愛」という概念も、言葉でくくっている。


その全てのキーになるのが【言葉】なんです。


ここまで来て、それでもあなたは動物は言葉を持っているといえるでしょうか?


・・・・・・


言葉を考えていくと、いろいろな方面に考えが発展していきますが、


ぼくは言葉の原点に帰って考えてみたい。


【分ける】ということなんです。


その分けることの究極は、自分と他人を分けるということなんです。


他人とは違う自分。


そのとき初めて【自我】というものが生まれてくる。


自我というものを抽出したのは、実は言葉の働きじゃないかと考えたのです。


次の仮定にはビックリされるかも知れませんが:


逆に、言葉がなければ自我は存在しないのじゃないかという仮定です。


もっと言えば、「【自分】という言葉がなければ、自分は存在しないのじゃないか」ということです。


・・・・・・


これには反論がたくさん出てくると思います。


だって、自分は自分で、実際にここにいるじゃないか?


そう、「我思うゆえに我あり」ですよね。


でも、この「我」という言葉がなければ、自分は存在しないでしょ?


ちょっと、理解しづらいですよね。


例えば赤ん坊。


赤ん坊は間違いなく存在します。


でも、自我は持っていません。


どうしてかというと、言葉を持たないからです。


言葉を理解するようになって始めて、自分というものを知るのです。


自分という言葉を知らない限り、赤ん坊側から見た自分は存在しないのです。


たとえば、動物。


自分という言葉をもちろん彼等は持っていない。


だから、大人の動物でも自分というものを知らずに一生を終えるのです。


例えば狼少年。


狼が乳を与え、言葉を知らないまま育った人間には自分というものを持っていないはずです。


・・・・・・


さらに考えを進めます。


もし、「自分という言葉がなければ自分が存在しない」のなら、死は怖くないはずです。


元々自分がないのですから、死によって自分が消滅することを恐れないはずです。


もちろん、動物だって死を恐れます。


でも、「死」という言葉の持つ概念によって恐れるのではなく、本能で身を守ろうとするだけです。


生きているうちから死ぬことを怖がることはしないはずです。


ここまで来ると、生きる意味を考えるなんてドォーでも良くなってきます。


だって、自分が存在しないのだから。


・・・・・・


もちろん今まで述べてきたことは変です。


相当ヘンです。


でも、相当楽になるはずです。


自分に固執しなくなるからです。


キリスト教の説く「無償の愛」とか、「隣人愛」なんて、スンナリ入ってきます。


仏教の説く「無我」なんていうものも理解できます。


そうなんです、【始めに言葉ありき】なんです。


全ては【言葉】から始まっているんです。


・・・・・・


以上、まとまっていないでしょ?


ここまでがぼくの考えていることなんですけど、そこから先に進まない。


もう一つ、これに関連して【自分】ということに想いをめぐらしているんですが、これはまた別の機会に書いてみます。