今日のズンバ、楽しそうだったなぁ。
レッスン後も大盛り上がり、あの団結力、素晴らしいね(^-^)
LINEのタイムランにタムさんがアップしてますよ。
まだ登録されていない方、館内掲示ご覧下さい(^o^)/
LINEではこんな乙女の画像も(笑)
前回のブログで大人と子供の関係について、一冊の絵本から感じたことをご紹介したところ、やはりそういったことに熱心だったり、悩んでいらしゃる方から、いくつかご感想やご質問をいただきました。ありがとうございました。
子供が変わったのではなく、大人である親や学校の先生が変わった時に、子供が成長した。ということで締めくくりましたが、この部分について考えさせられたというお声が多かった。僕はあくまであの絵本から感じたことを感想文的な気持で書いたつもりでしたが、現実的に受け止めて下さった方も結構いたということだと感じました。
そして今回いただいたメッセージの中で最も多かったのが、叱っても叱っても主人公である『ぼく』は全く変わらなかったのだから、叱ることの効果がなかった、という部分に対してのご感想。
『でも、叱ることはやっぱり必要』『叱らなかったら、それがいけいないことだということを学ばないのでは?』といった内容。確かにこれはその通りですよね。叱らないで育てることなんて出来るのかな、と僕も思います。
叱ること以上に効果があることはなにか?と聞かれても、とてもとても僕なんかはそれを語れるような人間ではありません。そこでアドラー心理学に基づいた考えをお伝えしたいと思います。
フロイトやユングと並んで心理学の巨匠と称されるアルフレッド・アドラーとその後継者によって構築され、特に育児や教育という分野で大きな発展を遂げた『アドラー心理学』においては、罰したり、叱ったりすることを否定している。
アドラー心理学をわかりやすく解説している本、『アドラー心理学入門』によれば子供に恥をかかせたり、面目を失わせたりすることで、行動を改善するよう影響を及ぼすことができると、決して信じてはならない。そういった効果は一時的な効果でしかなく、叱る人がいなければ不適切な行動をとるだろうし、不適切な行動はしないまでも、積極的に適切な行動をしなくなることもある。ということだ。
また親が叱るということは、子供の問題行動に『負の注目』を与えることになり、その問題行動を助長する原因になったり、関係を悪化させることにつながるという。人は叱られるよりは、まず認めらる、褒められるという『正の注目』を得たいと思う方が普通だ。しかしそれが得られないのならば、無視されるよりは『負の注目』を得ようと、わざと不適切な行動をとるというのだ。
よく『愛情があるから叱る』と言うが、これは確かにその通りで、最も辛いのは無視されることだ。『正の注目』が得られないなら、せめて『負の注目』を得ようとしてしまうということだ。無視に比べれば、叱られることの方が愛情によっぽど近い。
当然ながら不適切な行動に対して『正の注目』を与えることは無意味。例えば公共の騒いではいけないような場所で、子供がはしゃぎ回る。よくある光景ですよね。そこで厳しく叱りつける親もいれば、反対に叱らずに、にこやかな表情で『ダメだよ~、そんなことしたら怒られるよ。ちゃんと言うこと聞いてね~』と言う親もいる。
すると走り回っていた子供が親の元へ駆け寄ってきて、親を叩いたり大声で何かを話しかけ続けたりして、『どうしたの~?しょうがないね~』と、やはり笑いながら子供を見ている。口では注意しているが、態度はその逆。
叱らずに諭したいという気持もあるかもしれないが、これは不適切な行動に対して『正の注目』を与える行為であり、子供の行動が改まることは期待できない。
またアドラー心理学では上下関係ではなく、対等な横の関係を重視していることから、叱るという行為は上下を作ることになるし、上記の親のように、にこやかに諭そうとするのも一種の上下関係とも考えられる。
では、どうすればいいのか?アドラー心理学では、不適切な行動を改めさせようとするのではなく、適切な行動にスポットライトを当てる、つまり『正の注目』を与えることが必要だという。適切な行動によって注目を得られれば、不適切な行動をしてまで注目を得ようとしなくなっていく。それによって不適切な行動を減らしていけると考えるのです。
では適切な行動とは何かというと、それは『普通であること』です。どんなにやんちゃでワガママな子供だって、1日中不適切な行動ばかりしているというわけではない。良いことをしているわけでも、悪いことをしているわけでもない、普通の時がありますよね。そこに注目するのです。
いい子だと思われたくて褒められるようなことをしなくても、悪いことをして叱られるようなことをしなくても、『普通のあなたがいいんだよ』ということを教えてあげるということでしょうか。子供は親から注目されていたいでしょうから、そのためには良いことにせよ、悪いことにせよ、特別目立つことをしないと親の注目を得られないのではなく、普通でいることで注目が得られるんだということを知るようになればいい。アドラー心理学ではこれを『普通であることの勇気』という表現をしている。
先の、はしゃぎ回る子供の例が、お母さんとスーパーに買い物に来た時だとしたならば、はしゃぐ前に『あ、今日は大人しく一緒についてきてくれて助かるなぁ。おかげでちゃんと買い物ができて、お母さん嬉しいな、ありがとうね!』と認めてあげる。
大事なのは褒めるのではないといこと。『いいこだねぇ、立派だね』とか『よく出来たね』といういう言葉は上下関係を作ることになり、『親が期待している結果をださなければ』と思うようになり、そうでないと注目してもらいえないということにもなる。
先ほどの、はしゃぐ前の言葉では、まず『大人しいね』と事実を言う。それに対して『嬉しいな』と自分の主観を伝える。そして『ありがとう』と感謝する。子供が走り回って手を焼くことなく、一緒に仲良く普通に買い物出来ることは、事実嬉しいなのだから嘘にもならない。
僕ら大人は、子供が不適切な行動をとった時に叱ったり、良いことをした時に褒めたりするが、普通にしている当たり前の状態も嬉しいし、安心できるということを見逃していることが多いのではないだろうか。
まぁ、もちろんその前に子供が不適切な行動をしてしまうこともあるから、やはり、叱るという『負の注目』を与えなくてはいけない時もあると思います。しかしそれは出来るだけ短く切り上げたり、それだけになってしまわないように気をつけつつ、
『普通であることに正の注目を与える』
ことを少しずつでも増やしていければよいのではないでしょうか。これが唯一の正しい考え方などというつもりはもちろんありませんし、考え方の1つとして僕が知っていることをお答えさせていただきました。
僕はアドラー心理学を知り、勉強しはじめてまだ日が浅いし、本を数冊ばかり読んだ程度ですので、もし間違った解釈に気づいたり、ご指摘があった場合には、このブログ上で訂正させていただきたいと思います。
最後に文中にできてきた、当たり前の状態である『普通であることの勇気』について、このブログを書くにあたって参考にさせていたもらった本、『アドラー心理学入門(著者:岸見一郎氏)』の本文を引用させていただき終わりにしたい。
~以下引用~
褒めるのと違って、すなわち、評価するのではなく、喜びを共有すること、自分の気持を伝えることは勇気づけになります。当たり前だと思って見逃しがちな行為に対して「ありがとう」とか、「うれしい」とか「助かった」といってみます。
(中略)
このような言葉は気恥ずかしくてなかなかかけられないという人は多いです。ありがとうといおうとしたら顔が引きつるという人もいます。しかしその気恥ずかしさはまず自分が克服するのだ、と考えたいのです。
~引用終わり~

***************************************
いつも、クリック投票にご協力いただき、ありがとうございます。
皆さんの反応が、内海に情熱と勇気を与えてくれます。
今日の内容はいかがでしたか?
良かった、と感じた方は
↓是非ワンクリックお願い致します。
clap.mag2.com/cainoniric?20131028
子供が変わったのではなく、大人である親や学校の先生が変わった時に、子供が成長した。ということで締めくくりましたが、この部分について考えさせられたというお声が多かった。僕はあくまであの絵本から感じたことを感想文的な気持で書いたつもりでしたが、現実的に受け止めて下さった方も結構いたということだと感じました。
そして今回いただいたメッセージの中で最も多かったのが、叱っても叱っても主人公である『ぼく』は全く変わらなかったのだから、叱ることの効果がなかった、という部分に対してのご感想。
『でも、叱ることはやっぱり必要』『叱らなかったら、それがいけいないことだということを学ばないのでは?』といった内容。確かにこれはその通りですよね。叱らないで育てることなんて出来るのかな、と僕も思います。
叱ること以上に効果があることはなにか?と聞かれても、とてもとても僕なんかはそれを語れるような人間ではありません。そこでアドラー心理学に基づいた考えをお伝えしたいと思います。
フロイトやユングと並んで心理学の巨匠と称されるアルフレッド・アドラーとその後継者によって構築され、特に育児や教育という分野で大きな発展を遂げた『アドラー心理学』においては、罰したり、叱ったりすることを否定している。
アドラー心理学をわかりやすく解説している本、『アドラー心理学入門』によれば子供に恥をかかせたり、面目を失わせたりすることで、行動を改善するよう影響を及ぼすことができると、決して信じてはならない。そういった効果は一時的な効果でしかなく、叱る人がいなければ不適切な行動をとるだろうし、不適切な行動はしないまでも、積極的に適切な行動をしなくなることもある。ということだ。
また親が叱るということは、子供の問題行動に『負の注目』を与えることになり、その問題行動を助長する原因になったり、関係を悪化させることにつながるという。人は叱られるよりは、まず認めらる、褒められるという『正の注目』を得たいと思う方が普通だ。しかしそれが得られないのならば、無視されるよりは『負の注目』を得ようと、わざと不適切な行動をとるというのだ。
よく『愛情があるから叱る』と言うが、これは確かにその通りで、最も辛いのは無視されることだ。『正の注目』が得られないなら、せめて『負の注目』を得ようとしてしまうということだ。無視に比べれば、叱られることの方が愛情によっぽど近い。
当然ながら不適切な行動に対して『正の注目』を与えることは無意味。例えば公共の騒いではいけないような場所で、子供がはしゃぎ回る。よくある光景ですよね。そこで厳しく叱りつける親もいれば、反対に叱らずに、にこやかな表情で『ダメだよ~、そんなことしたら怒られるよ。ちゃんと言うこと聞いてね~』と言う親もいる。
すると走り回っていた子供が親の元へ駆け寄ってきて、親を叩いたり大声で何かを話しかけ続けたりして、『どうしたの~?しょうがないね~』と、やはり笑いながら子供を見ている。口では注意しているが、態度はその逆。
叱らずに諭したいという気持もあるかもしれないが、これは不適切な行動に対して『正の注目』を与える行為であり、子供の行動が改まることは期待できない。
またアドラー心理学では上下関係ではなく、対等な横の関係を重視していることから、叱るという行為は上下を作ることになるし、上記の親のように、にこやかに諭そうとするのも一種の上下関係とも考えられる。
では、どうすればいいのか?アドラー心理学では、不適切な行動を改めさせようとするのではなく、適切な行動にスポットライトを当てる、つまり『正の注目』を与えることが必要だという。適切な行動によって注目を得られれば、不適切な行動をしてまで注目を得ようとしなくなっていく。それによって不適切な行動を減らしていけると考えるのです。
では適切な行動とは何かというと、それは『普通であること』です。どんなにやんちゃでワガママな子供だって、1日中不適切な行動ばかりしているというわけではない。良いことをしているわけでも、悪いことをしているわけでもない、普通の時がありますよね。そこに注目するのです。
いい子だと思われたくて褒められるようなことをしなくても、悪いことをして叱られるようなことをしなくても、『普通のあなたがいいんだよ』ということを教えてあげるということでしょうか。子供は親から注目されていたいでしょうから、そのためには良いことにせよ、悪いことにせよ、特別目立つことをしないと親の注目を得られないのではなく、普通でいることで注目が得られるんだということを知るようになればいい。アドラー心理学ではこれを『普通であることの勇気』という表現をしている。
先の、はしゃぎ回る子供の例が、お母さんとスーパーに買い物に来た時だとしたならば、はしゃぐ前に『あ、今日は大人しく一緒についてきてくれて助かるなぁ。おかげでちゃんと買い物ができて、お母さん嬉しいな、ありがとうね!』と認めてあげる。
大事なのは褒めるのではないといこと。『いいこだねぇ、立派だね』とか『よく出来たね』といういう言葉は上下関係を作ることになり、『親が期待している結果をださなければ』と思うようになり、そうでないと注目してもらいえないということにもなる。
先ほどの、はしゃぐ前の言葉では、まず『大人しいね』と事実を言う。それに対して『嬉しいな』と自分の主観を伝える。そして『ありがとう』と感謝する。子供が走り回って手を焼くことなく、一緒に仲良く普通に買い物出来ることは、事実嬉しいなのだから嘘にもならない。
僕ら大人は、子供が不適切な行動をとった時に叱ったり、良いことをした時に褒めたりするが、普通にしている当たり前の状態も嬉しいし、安心できるということを見逃していることが多いのではないだろうか。
まぁ、もちろんその前に子供が不適切な行動をしてしまうこともあるから、やはり、叱るという『負の注目』を与えなくてはいけない時もあると思います。しかしそれは出来るだけ短く切り上げたり、それだけになってしまわないように気をつけつつ、
『普通であることに正の注目を与える』
ことを少しずつでも増やしていければよいのではないでしょうか。これが唯一の正しい考え方などというつもりはもちろんありませんし、考え方の1つとして僕が知っていることをお答えさせていただきました。
僕はアドラー心理学を知り、勉強しはじめてまだ日が浅いし、本を数冊ばかり読んだ程度ですので、もし間違った解釈に気づいたり、ご指摘があった場合には、このブログ上で訂正させていただきたいと思います。
最後に文中にできてきた、当たり前の状態である『普通であることの勇気』について、このブログを書くにあたって参考にさせていたもらった本、『アドラー心理学入門(著者:岸見一郎氏)』の本文を引用させていただき終わりにしたい。
~以下引用~
褒めるのと違って、すなわち、評価するのではなく、喜びを共有すること、自分の気持を伝えることは勇気づけになります。当たり前だと思って見逃しがちな行為に対して「ありがとう」とか、「うれしい」とか「助かった」といってみます。
(中略)
このような言葉は気恥ずかしくてなかなかかけられないという人は多いです。ありがとうといおうとしたら顔が引きつるという人もいます。しかしその気恥ずかしさはまず自分が克服するのだ、と考えたいのです。
~引用終わり~

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我らがDr.スランプ泉ちゃん、突破ですね!嬉しいなぁ。当初は高村と来月の10日にレッスン受けにいこうかと思っていましたが、残念ながらそれはどうしても叶わず。
しかし『元気の泉』底なしパワー炸裂を色んな方に体感していただけると思うと十分ワクワクしますね。
『これが最後~っっっ!』
『ヾ(´∀`*)ノフォーーーーー』
↓ご購入下さった会員様の分もまとめて一斉投下!
最高の気分です。

是非みんなで応援していきましょう!
しかし、投票再開はしばらく無しでもいいような気がするのは僕だけだろうか。
この投票はあまりに期間が長い(ファイナル決定は来年1月)。好きなインストラクターを応援するのは楽しいので良いのですが、もう少し短期決戦にして、お客様の負担を軽減してあげてもいいような感じがしなくもない。
先日、『かたおもい』のメッセージを下さったHさんへ、このブログにてお返事をしようかと考えて書き上げてみたのですが、迷った末に今回は公表をボツにすることとしました。申し訳ございません。
メアド付きでのメッセージ、もしくはアメブロでのメッセージ(アカウントをお持ちでしたら)をいただければ、事情と書き上げた内容についてお伝えさせていただきます。何卒ご了承下さいませ。
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さて、今日は絵本の話。かなり有名になった絵本らしいので、ご存知の方もきっとたくさんいらっしゃるかもしれない。
「おこだでませんように」
くすのきしげのり・作 石井聖岳・絵(小学館)

有名だということで、いったいどんな絵本なのか気になり、だいぶ前に買って一度読んだきりだったが、書棚の整理をした時に、ふと取り出し読み返したみたところ、最初に読んだ時と全く違う印象、気付きを得たので、ここでご紹介してみたくなった。
この絵本の内容も確かに素晴らしいし、絵もみればみるほど、登場人物の感情の動きがリアルに伝わってくるほど素晴らしいです。
いくつか文章を引用しながらご紹介したい。
『ぼくは いつも おこられる。いえでも がっこうでも おこられる。』
こんな書き出しでスタートする。
主人公の『ぼく』は、小学校一年生のお兄ちゃん。家でも、学校でも、何かをするたびに怒られてばかり。そんな『ぼく』の心の声を描いた内容。
家ではお母さんに怒られる。
お母さんが仕事で帰りが遅い時、妹と遊んでやろうと、折り紙をつくる。すると妹は、その折り紙をみて、『こんな ぐちゃぐちゃな おりがみなんか いやや。 おかあちゃんは もっと じょうずやもん!』と言い、『ぼく』がそれに対し怒ると、妹はすぐに泣いてしまう。
そしてお母さんが帰ってきて怒られる。
『また いもうと なかして!』
『(いもうとのくせに わがままばっかり いうからや)』
『まだ しゅくだい してないの!』
『(いもうとと あそんでやってたからや)』
『けれど、ぼくが そういうと、おかあちゃんは もっと おこるに きまってる。』
『だから、ぼくは だまって よこをむく。』
カッコの中は「ぼく」の心の声。僕はこの気持がよく分かる。自分には理由があるのに、それをうまく言えなかったり、言ってもどうせ余計に怒られるから黙りこむ。
学校では、友達とうまく調和できずに先生に怒られる。
休み時間にマーくんとターくんがサッカーの仲間に入れてくれなかったので、その理由を2人に尋ねるとこう言われた。
『おまえは ルールを しらんし、 らんぼうやから なかまに いれてやらへん』
『ぼくは くやしかったので、「あーあー、 そうですか。こっちこそ たのまれても いっしょに あそんでやらへんからな」と いうてやった。』
『いいながら、ぼくは マーくんに キックを して、 ターくんに パンチを した。すぐに ふたりは なきだした。』
そこへ先生がやってきて、また怒られる。
『(ふたりが さきに いじわる いうたんや)』
『けれど ぼくが なにか いうと、 せんせいは もっと おこるに きまってる』
自分なりの理由があるのに、それを分かってもらうこともできずに、いつも怒られてしまう。
そして7月7日、七夕の日。学校で児童たちがみんなで短冊に願い事を書く行事。やりましたよね、小学校の時、僕も書いた記憶がある。この時に「ぼく」が書いた一言が、思わぬ展開をもたらしてくれる。
『マーくんと ターくんは、「サッカーせんしゅに なれますように」』
『ともちゃんは、「ピアノが じょうずに なりますように」とかいた。』
『ぼくは、かんがえた。いちばんのおねがいを かんがえた』
『いっしょうけんめい かんがえていると、「はよう かきなさい」と、またおこられた』
『ぼくは、しょうがっこうに にゅうがくしてから おしえてもらった ひらがなで、いちばんのおねがいを かいた。ひらがな ひとつずつ、こころを こめて かいた。』
『おこだでませんように』
すると先生は、その短冊をじっと見つめて、涙を流し始める。
『せんせい……、おこってばかりやったんやね。……ごめんね。よう かけたねぇ。ほんまに ええ おねがいやねぇ。』
『せんせいが ほめてくれた!!』
『ぼくは おどろいた。 さっそく おねがいが かなったからや』
『そのひの よる、せんせいから でんわが あった』
『でんわが おわると おかあちゃんが、いつも いもうとに するみたいに ぼくを だっこしてくれた』
『ごめんね、おかあちゃんも おこってばっかりやったね』。そう いいながら、おかあちゃんは、ぎゅうっと だきしめてくれた』
母親と先生がどのような気持だったか、何となく理解できる。「ぼく」を叱ってばかりいたことを反省している気持が。
でもですね、主人公の「ぼく」は、考え方も行動も間違ったことをしてしまっている。
妹をなかせたのは、妹がわがままだから。
宿題が出来ないのは、妹と遊んでやってたから。
マーくんと、ターくんにキックとパンチをしたのは、2人が自分を仲間はずれにしたから。
自分がしたことは棚に上げて、全部人のせいにしてしまったり、友達に乱暴をするという行為にまで及んでいる。母親や先生が怒るのは当然ではないだろうか。
それを誰も叱らずに育ってしまったら、「ぼく」は間違った人生を歩むことにもなりかねない。そう思い叱ることを、親や先生といった大人側の視点でみると、それも『愛情』という見方になる。
しかしこの絵本、ここで一瞬考えさせられる。
この「ぼく」は、ずっと怒られ続けている。
つまり、怒られても、怒られても、一向に変わらず、間違った考え方と行動を続けてきているということ。だとすれば、親や先生が怒っていることは効果がないということではないだろうか。大人にとっては愛情のつもりだが、子供にとってはそうではない。愛情と受け取ることができない。
なぜなら「ぼく」には人のせいにしているとはいえ、その行動をとった理由がある。しかし母親や先生は「ぼく」の理由や気持ではなく、行動に対して叱るという行為をとっているから。そしてそれが愛情であると思っているのではないだろうか。
もし、母親や先生が「ぼく」のとった行動だけを叱るのではなく、その前に「気持」を認めてあげようとしていたら、どうだったろう?
怒ってばかりだったことを先生は泣きながら謝り、願い事を『よう書けたねぇ』と褒め、母親も『ごめんね、怒ってばっかりやったねぇ』と謝り、いつも妹にしているように「ぼく」を
ぎゅっと抱きしめた。
『おこだでませんように』という願いが叶ったと思い、その後「ぼく」は、こんなふうに言っている。
『たなばたさま ありがとう。 ほんまに ありがとう』
『きょう、ぼくは ものすごく しあわせです』
『おれいに ぼく もっと もっと ええこに なります。』
ここでこの絵本は終わる。叱るのではなく、「ぼく」の気持に母親と先生が気づき、それを認めてああげると「ぼく」は、『もっとええこになります。』と見事に成長した。
叱っても、叱っても効果が無かった「ぼく」が、ついに『ええこになります』という宣言をした。
大人である「せんせい」と「おかあちゃん」が「行動を叱る」のではなくて「気持を認めてあげた」ことによって、ついに「ぼく」は変わったのです。
絵本はここで終わりなので、その後「ぼく」が本当に変わったかどうかは分からない。
でも、ここで、この絵本を読んだ大人へ向けたもう1つの大きなメッセージが隠されているのではないだろうか。
変わったのは「ぼく」ではない。「せんせい」と「おかあちゃん」だった。その時に「ぼく」は成長したのではないだろうか。
何かを感じていただけた方は、ぜひお買い求めいただき、読んでみていただけたらと思います。
この程度の引用では感じることの出来ない、この絵本の深さに、きっと涙が溢れると思います。
おこだでませんように←Amazonです。
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「おこだでませんように」
くすのきしげのり・作 石井聖岳・絵(小学館)

有名だということで、いったいどんな絵本なのか気になり、だいぶ前に買って一度読んだきりだったが、書棚の整理をした時に、ふと取り出し読み返したみたところ、最初に読んだ時と全く違う印象、気付きを得たので、ここでご紹介してみたくなった。
この絵本の内容も確かに素晴らしいし、絵もみればみるほど、登場人物の感情の動きがリアルに伝わってくるほど素晴らしいです。
いくつか文章を引用しながらご紹介したい。
『ぼくは いつも おこられる。いえでも がっこうでも おこられる。』
こんな書き出しでスタートする。
主人公の『ぼく』は、小学校一年生のお兄ちゃん。家でも、学校でも、何かをするたびに怒られてばかり。そんな『ぼく』の心の声を描いた内容。
家ではお母さんに怒られる。
お母さんが仕事で帰りが遅い時、妹と遊んでやろうと、折り紙をつくる。すると妹は、その折り紙をみて、『こんな ぐちゃぐちゃな おりがみなんか いやや。 おかあちゃんは もっと じょうずやもん!』と言い、『ぼく』がそれに対し怒ると、妹はすぐに泣いてしまう。
そしてお母さんが帰ってきて怒られる。
『また いもうと なかして!』
『(いもうとのくせに わがままばっかり いうからや)』
『まだ しゅくだい してないの!』
『(いもうとと あそんでやってたからや)』
『けれど、ぼくが そういうと、おかあちゃんは もっと おこるに きまってる。』
『だから、ぼくは だまって よこをむく。』
カッコの中は「ぼく」の心の声。僕はこの気持がよく分かる。自分には理由があるのに、それをうまく言えなかったり、言ってもどうせ余計に怒られるから黙りこむ。
学校では、友達とうまく調和できずに先生に怒られる。
休み時間にマーくんとターくんがサッカーの仲間に入れてくれなかったので、その理由を2人に尋ねるとこう言われた。
『おまえは ルールを しらんし、 らんぼうやから なかまに いれてやらへん』
『ぼくは くやしかったので、「あーあー、 そうですか。こっちこそ たのまれても いっしょに あそんでやらへんからな」と いうてやった。』
『いいながら、ぼくは マーくんに キックを して、 ターくんに パンチを した。すぐに ふたりは なきだした。』
そこへ先生がやってきて、また怒られる。
『(ふたりが さきに いじわる いうたんや)』
『けれど ぼくが なにか いうと、 せんせいは もっと おこるに きまってる』
自分なりの理由があるのに、それを分かってもらうこともできずに、いつも怒られてしまう。
そして7月7日、七夕の日。学校で児童たちがみんなで短冊に願い事を書く行事。やりましたよね、小学校の時、僕も書いた記憶がある。この時に「ぼく」が書いた一言が、思わぬ展開をもたらしてくれる。
『マーくんと ターくんは、「サッカーせんしゅに なれますように」』
『ともちゃんは、「ピアノが じょうずに なりますように」とかいた。』
『ぼくは、かんがえた。いちばんのおねがいを かんがえた』
『いっしょうけんめい かんがえていると、「はよう かきなさい」と、またおこられた』
『ぼくは、しょうがっこうに にゅうがくしてから おしえてもらった ひらがなで、いちばんのおねがいを かいた。ひらがな ひとつずつ、こころを こめて かいた。』
『おこだでませんように』
すると先生は、その短冊をじっと見つめて、涙を流し始める。
『せんせい……、おこってばかりやったんやね。……ごめんね。よう かけたねぇ。ほんまに ええ おねがいやねぇ。』
『せんせいが ほめてくれた!!』
『ぼくは おどろいた。 さっそく おねがいが かなったからや』
『そのひの よる、せんせいから でんわが あった』
『でんわが おわると おかあちゃんが、いつも いもうとに するみたいに ぼくを だっこしてくれた』
『ごめんね、おかあちゃんも おこってばっかりやったね』。そう いいながら、おかあちゃんは、ぎゅうっと だきしめてくれた』
母親と先生がどのような気持だったか、何となく理解できる。「ぼく」を叱ってばかりいたことを反省している気持が。
でもですね、主人公の「ぼく」は、考え方も行動も間違ったことをしてしまっている。
妹をなかせたのは、妹がわがままだから。
宿題が出来ないのは、妹と遊んでやってたから。
マーくんと、ターくんにキックとパンチをしたのは、2人が自分を仲間はずれにしたから。
自分がしたことは棚に上げて、全部人のせいにしてしまったり、友達に乱暴をするという行為にまで及んでいる。母親や先生が怒るのは当然ではないだろうか。
それを誰も叱らずに育ってしまったら、「ぼく」は間違った人生を歩むことにもなりかねない。そう思い叱ることを、親や先生といった大人側の視点でみると、それも『愛情』という見方になる。
しかしこの絵本、ここで一瞬考えさせられる。
この「ぼく」は、ずっと怒られ続けている。
つまり、怒られても、怒られても、一向に変わらず、間違った考え方と行動を続けてきているということ。だとすれば、親や先生が怒っていることは効果がないということではないだろうか。大人にとっては愛情のつもりだが、子供にとってはそうではない。愛情と受け取ることができない。
なぜなら「ぼく」には人のせいにしているとはいえ、その行動をとった理由がある。しかし母親や先生は「ぼく」の理由や気持ではなく、行動に対して叱るという行為をとっているから。そしてそれが愛情であると思っているのではないだろうか。
もし、母親や先生が「ぼく」のとった行動だけを叱るのではなく、その前に「気持」を認めてあげようとしていたら、どうだったろう?
怒ってばかりだったことを先生は泣きながら謝り、願い事を『よう書けたねぇ』と褒め、母親も『ごめんね、怒ってばっかりやったねぇ』と謝り、いつも妹にしているように「ぼく」を
ぎゅっと抱きしめた。
『おこだでませんように』という願いが叶ったと思い、その後「ぼく」は、こんなふうに言っている。
『たなばたさま ありがとう。 ほんまに ありがとう』
『きょう、ぼくは ものすごく しあわせです』
『おれいに ぼく もっと もっと ええこに なります。』
ここでこの絵本は終わる。叱るのではなく、「ぼく」の気持に母親と先生が気づき、それを認めてああげると「ぼく」は、『もっとええこになります。』と見事に成長した。
叱っても、叱っても効果が無かった「ぼく」が、ついに『ええこになります』という宣言をした。
大人である「せんせい」と「おかあちゃん」が「行動を叱る」のではなくて「気持を認めてあげた」ことによって、ついに「ぼく」は変わったのです。
絵本はここで終わりなので、その後「ぼく」が本当に変わったかどうかは分からない。
でも、ここで、この絵本を読んだ大人へ向けたもう1つの大きなメッセージが隠されているのではないだろうか。
変わったのは「ぼく」ではない。「せんせい」と「おかあちゃん」だった。その時に「ぼく」は成長したのではないだろうか。
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この程度の引用では感じることの出来ない、この絵本の深さに、きっと涙が溢れると思います。
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今日の内容はいかがでしたか?
良かった、と感じた方は
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clap.mag2.com/cainoniric?20131021
トレーニングを続けていると、誰しも必ず経験するのがプラトー。最初の頃は面白いように扱う重量も増え、筋力、筋量も伸びていく。でもそれはある程度のところまで。遺伝的要素もあるだろうが、そっから先は様々な試行錯誤を重ねたり、心理的な限界を引き上げることへ挑戦するなどしていかなくてはいけない。
色々と試しているうちに、ある時『これだ!』という感触を掴むことが何度かある。あとは食事なり、トレーニング方法なり、それを地道に続けていく。
筋肉の発達というのは、本当に少しずつでしかないから、『これだ!』と感じたことを続けていっても、すぐにカラダが変化するわけではない。やり方を変えてもまだプラトーの状態なのではないかと思いたくなる期間は決して短くない。
でもそこで諦めないで、もっと耐えることを自分に要求していけば、カラダの成長を実感できるところに辿りつけることがある。続けているときは『なかなか成長していないなぁ』と思い続けながらも、ある時ふとカラダの見た目が変わっていることに気づいた時や、何かの種目で明らかに以前より重い重量を扱えるようになった時は、まるで突然何かがわき出てきたかのように一気に成長しているように感じる。そこから好調が再び始まる。
例えば、100mのスプリンターが記録を0.1秒縮めるためにフォームの改造を試したとする。当然いきなり結果は出ない。『以前のフォームの方がまだよかったのでは?』という不安を抱えながらもひたすら練習を繰り返す。この期間というのもある意味プラトーといっていいのかも知れない。
それでも諦めずに練習を繰り返した結果、ある時、自分がイメージしていた走りの感触を掴む。それをきっかけにそのフォームの再現性がどんどん高まり、競技の成績もぐんと伸びていく。そんなイメージだ。
スポーツに限ったことではなく、何事においても、どんなにどんなに努力しても、なかなかその結果がでないことは少なくない。でもある時、それが突然実を結ぶ、あるいは良い方向性を見いだせたりすることがある。
努力を続けている時は、一見遠回りをしているように感じることがあっても、ブレイクスルーして過去を振り返った時に『あの時期があったからこそ』と思えるような経験を自分がしたり、そういう人を知っているという人は少なくないと思う。
僕自身もそんな経験を何度かしてきた。それを振り返ってみて改めて認識しなくてはいけないと感じたのは
★プラトーというものは確実に存在するものである
ということ。そしてそれを耐え続けることでしか掴むことの出来ない成功もあるということ。このことは『真理』と言ってもいいような気がする。
『耐え続ける』というのは、一発逆転を狙ってやろうと掛け算を企てるのではなく、地道に1を足していくこと。やるべきとを1つずつ積み重ねること。そうすることで突然、成功やブレイクスルーのチャンスに巡りあう方法。
4,000本安打達成したイチロー選手のこんな言葉をご存知の方も多いだろう。
『小さいことを積み重ねることが、とんでもないところに行くただひとつの道』
プラトーであろうと、そこからどうにか一気に状況を変えようするのではなく、耐え続けること。1を重ね続けること。僕の頭の中でそのことの意味と真理がイチロー選手のこの言葉と重なった。
今の僕はこれが真理であると信じている。いや、信じているといよりは『知った』という方が正しいのかも知れない。自分のこれまでや、先人の教えを振り返ってみてもこれは真理だと思う。
この先のトレーニングについて、どのようにプラトーを回避していこうかを考えていたつもりなのだが、気づいたらなぜだかこんなふうに人生や仕事にもそれを当てはめて考え始めていた。今の自分が置かれた状況というのもあるかも知れない。
そんなことに気づき、考え方も自然と改まってくると、僕は『今』という時間がなんだか愛しくさえ感じる。全く前進出来ているように感じることが出来ない『今』でさえ、穏やかに豊かな心で生きていける。くさらず、1を足し続け、1日1日を過ごし、今は想像すらできない『とんでもないところ』が見える日まで。
努力していても、辛抱していても、その先のゴールや成功が見いだせない停滞は確実に存在する。その期間がブランクとなるのか、ブレイクスルーの準備となるかは、幸いにも自分で意味づけをしていけるものだ。そう信じれば、僕は『今』が愛しいのです。
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先日ご報告した一件以来、たくさんの方からメッセージをいただきました。そしてその中でも『このブログを楽しみにしているので、これからも頑張って更新をして下さい』というお言葉も多くいただき、本当に勇気づけられました。ありがとうございます。
何事もなかったように、ブログを続けていくこともどうかと迷ったのが正直なところでしたが、励まして下さった皆様への感謝をお伝えするためにも、方向性や更新日なども変更せずこれからも書き続けていきたいと思います。
本当にありがとうございました!
色々と試しているうちに、ある時『これだ!』という感触を掴むことが何度かある。あとは食事なり、トレーニング方法なり、それを地道に続けていく。
筋肉の発達というのは、本当に少しずつでしかないから、『これだ!』と感じたことを続けていっても、すぐにカラダが変化するわけではない。やり方を変えてもまだプラトーの状態なのではないかと思いたくなる期間は決して短くない。
でもそこで諦めないで、もっと耐えることを自分に要求していけば、カラダの成長を実感できるところに辿りつけることがある。続けているときは『なかなか成長していないなぁ』と思い続けながらも、ある時ふとカラダの見た目が変わっていることに気づいた時や、何かの種目で明らかに以前より重い重量を扱えるようになった時は、まるで突然何かがわき出てきたかのように一気に成長しているように感じる。そこから好調が再び始まる。
例えば、100mのスプリンターが記録を0.1秒縮めるためにフォームの改造を試したとする。当然いきなり結果は出ない。『以前のフォームの方がまだよかったのでは?』という不安を抱えながらもひたすら練習を繰り返す。この期間というのもある意味プラトーといっていいのかも知れない。
それでも諦めずに練習を繰り返した結果、ある時、自分がイメージしていた走りの感触を掴む。それをきっかけにそのフォームの再現性がどんどん高まり、競技の成績もぐんと伸びていく。そんなイメージだ。
スポーツに限ったことではなく、何事においても、どんなにどんなに努力しても、なかなかその結果がでないことは少なくない。でもある時、それが突然実を結ぶ、あるいは良い方向性を見いだせたりすることがある。
努力を続けている時は、一見遠回りをしているように感じることがあっても、ブレイクスルーして過去を振り返った時に『あの時期があったからこそ』と思えるような経験を自分がしたり、そういう人を知っているという人は少なくないと思う。
僕自身もそんな経験を何度かしてきた。それを振り返ってみて改めて認識しなくてはいけないと感じたのは
★プラトーというものは確実に存在するものである
ということ。そしてそれを耐え続けることでしか掴むことの出来ない成功もあるということ。このことは『真理』と言ってもいいような気がする。
『耐え続ける』というのは、一発逆転を狙ってやろうと掛け算を企てるのではなく、地道に1を足していくこと。やるべきとを1つずつ積み重ねること。そうすることで突然、成功やブレイクスルーのチャンスに巡りあう方法。
4,000本安打達成したイチロー選手のこんな言葉をご存知の方も多いだろう。
『小さいことを積み重ねることが、とんでもないところに行くただひとつの道』
プラトーであろうと、そこからどうにか一気に状況を変えようするのではなく、耐え続けること。1を重ね続けること。僕の頭の中でそのことの意味と真理がイチロー選手のこの言葉と重なった。
今の僕はこれが真理であると信じている。いや、信じているといよりは『知った』という方が正しいのかも知れない。自分のこれまでや、先人の教えを振り返ってみてもこれは真理だと思う。
この先のトレーニングについて、どのようにプラトーを回避していこうかを考えていたつもりなのだが、気づいたらなぜだかこんなふうに人生や仕事にもそれを当てはめて考え始めていた。今の自分が置かれた状況というのもあるかも知れない。
そんなことに気づき、考え方も自然と改まってくると、僕は『今』という時間がなんだか愛しくさえ感じる。全く前進出来ているように感じることが出来ない『今』でさえ、穏やかに豊かな心で生きていける。くさらず、1を足し続け、1日1日を過ごし、今は想像すらできない『とんでもないところ』が見える日まで。
努力していても、辛抱していても、その先のゴールや成功が見いだせない停滞は確実に存在する。その期間がブランクとなるのか、ブレイクスルーの準備となるかは、幸いにも自分で意味づけをしていけるものだ。そう信じれば、僕は『今』が愛しいのです。
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先日ご報告した一件以来、たくさんの方からメッセージをいただきました。そしてその中でも『このブログを楽しみにしているので、これからも頑張って更新をして下さい』というお言葉も多くいただき、本当に勇気づけられました。ありがとうございます。
何事もなかったように、ブログを続けていくこともどうかと迷ったのが正直なところでしたが、励まして下さった皆様への感謝をお伝えするためにも、方向性や更新日なども変更せずこれからも書き続けていきたいと思います。
本当にありがとうございました!
ちょっくら遅くなりましたが、本日レスミルズ新曲発表会!
3アイテム共通に含まれている曲。
troublemakerは、やっぱりパンプが一番いい。コンバットやステップに使われているのもノリが良いけど、これは原曲の良さにはかなわないなぁと個人的な感想。
パンプではTが熱唱するかも。。。
( ̄ー ̄)ニヤリッ
My Songs Know What You Did In The Darkは
I'm on fire!(誰も私を止められない!)の部分が熱い叙事詩ですね。
3アイテム共通に含まれている曲。
troublemakerは、やっぱりパンプが一番いい。コンバットやステップに使われているのもノリが良いけど、これは原曲の良さにはかなわないなぁと個人的な感想。
パンプではTが熱唱するかも。。。
( ̄ー ̄)ニヤリッ
My Songs Know What You Did In The Darkは
I'm on fire!(誰も私を止められない!)の部分が熱い叙事詩ですね。
自費製作。この世に一冊だけの本が、昨日あがってきた。
今までの体験から気付いた僕なりの考えの一部をまとめたエッセイ集。
試しに一冊製本してみただけだけど、やっぱり嬉しいもんですね。
今までの体験から気付いた僕なりの考えの一部をまとめたエッセイ集。
試しに一冊製本してみただけだけど、やっぱり嬉しいもんですね。
レスミルズジャパン15周年、おめでとうございます!
↓そしてスペシャルオーディション。
http://p.tl/zAoG
箱買いしようと思ったら、もう既に6箱しか残ってなかった( ̄◇ ̄;)
遠慮して今日は3本だけ購入!
↓こちらで投票
http://p.tl/AoQb
タムちゃんの為なら
カード限度額までぶっこむよ(`_´)ゞ
あ、箱買いされる方、投票代行もしますよ!
みなさん、今こそ田村を
どうぞ宜しくお願い致します!
↓そしてスペシャルオーディション。
http://p.tl/zAoG
箱買いしようと思ったら、もう既に6箱しか残ってなかった( ̄◇ ̄;)
遠慮して今日は3本だけ購入!
↓こちらで投票
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タムちゃんの為なら
カード限度額までぶっこむよ(`_´)ゞ
あ、箱買いされる方、投票代行もしますよ!
みなさん、今こそ田村を
どうぞ宜しくお願い致します!
人は決してそれを望んでいなけど、日常的に間違いを起こしてしまう。
この世に間違わない人間などいない。
にも関わらず悩ましいことに、人は時に間違いを認めるのを嫌うこともある。
しかし認めるならば、それを自らの責任と考え正そうとするか、他人や状況のせいにするかという選択肢がある。
他人や状況が悪いというならば被害者を演じ続ければ良いが、自分の責任だと思うならば自分を責めたり後悔したりするか、反省をしてそれを糧に前進するかという選択肢がある。
自分を責めることというのは、簡単で誰にでも出来るしそこから得られるものも少ないが、反省をしてそれを大きな糧とするならば、今後自分がどうあるべきなのかということを、時間がある時に何となく考え始めるか、すぐに真剣に考え始めるかという選択肢がある。
時間がある時に考えるというならばその程度の誠意であり、大したことは思いつかないだろうから別にいいが、すぐに考えるならば『努力したい』『出来るようになりたい』という意気込みレベルか、『必ずやる』と決意をして行動に移すという選択肢がある。
意気込みレベルなのであれば、やがてそれはすたれていくが、決意をしてそれを行動に移すとなると、結果が出る前に諦めるか、出るまで諦めないかという選択肢がある。
決意と行動を起こすところまでは難しくないが、結局のところそれを諦めずに続けられるどうかが全て。
人生における大きな選択肢というのは、何も特別な状況だけではなく、実は日常的に起こる間違い、失敗、挫折といった中にも、常に存在しているものなのかもしれない。それらを糧とし乗り越えるということは、絶対に諦めないこと、言い訳せずに何度でもやり直すこと。
昨夜はモモと一緒に久しぶりの神社参り。
決意を報告しつつ、そんなことを考えていた。

この世に間違わない人間などいない。
にも関わらず悩ましいことに、人は時に間違いを認めるのを嫌うこともある。
しかし認めるならば、それを自らの責任と考え正そうとするか、他人や状況のせいにするかという選択肢がある。
他人や状況が悪いというならば被害者を演じ続ければ良いが、自分の責任だと思うならば自分を責めたり後悔したりするか、反省をしてそれを糧に前進するかという選択肢がある。
自分を責めることというのは、簡単で誰にでも出来るしそこから得られるものも少ないが、反省をしてそれを大きな糧とするならば、今後自分がどうあるべきなのかということを、時間がある時に何となく考え始めるか、すぐに真剣に考え始めるかという選択肢がある。
時間がある時に考えるというならばその程度の誠意であり、大したことは思いつかないだろうから別にいいが、すぐに考えるならば『努力したい』『出来るようになりたい』という意気込みレベルか、『必ずやる』と決意をして行動に移すという選択肢がある。
意気込みレベルなのであれば、やがてそれはすたれていくが、決意をしてそれを行動に移すとなると、結果が出る前に諦めるか、出るまで諦めないかという選択肢がある。
決意と行動を起こすところまでは難しくないが、結局のところそれを諦めずに続けられるどうかが全て。
人生における大きな選択肢というのは、何も特別な状況だけではなく、実は日常的に起こる間違い、失敗、挫折といった中にも、常に存在しているものなのかもしれない。それらを糧とし乗り越えるということは、絶対に諦めないこと、言い訳せずに何度でもやり直すこと。
昨夜はモモと一緒に久しぶりの神社参り。
決意を報告しつつ、そんなことを考えていた。









