ほたるいかの書きつけ -32ページ目

どどどどうしましょう、みなさん!

TAKESANさん運営の某掲示板 から。
いわゆるタイプ1エラーの話。有意水準5%ということで話が進んでいます。太字強調は引用者。
352.ABO FAN 2008/12/27 00:28

>>338

> 細かいなあ。(^^;;

すみません。
数々の議論で懲りてますからね。(^^;;
念には念を入れて…と。

> だから、項目が100個あったら、5個は有意差が出てもおかしくないわけでしょ?
> あ、当然ながら、項目はそれぞれ独立だという仮定が入りますが。

本当にわかっているのでしょうか?
少々不安です。
有意差の有無を無視して、任意の100項目を選択した場合、「5個は有意差が出てもおかしくない」のではありませんよ。
しつこいようですが、有意差の出ている任意の100項目を選択した場合、「5個は誤って有意差が出ていていてもおかしくない」ということです。
念のため。

突然異次元に連れ去られた気分になり、以下のように返信した。
368.FSM 2008/12/27 01:16

(略)

え?えええ???ええとどうしたらいいのでしょう>みなさん
ABO FANさんと同じことを言っていると思っていたのですが…。

ここに1枚のコインがあります。投げて表と裏が出る確率は丁度0.5づつのものです。本当に0.5づつか検定しましょう…ありゃ、5回続けて表が出ちゃった。0.5づつとすると、5回続けて表が出る確率は1/32<0.05。0.5づつという帰無仮説は有意水準5%で棄却されました!つまりこのコインは表と裏が出る確率が0.5づつじゃありません!…あれ?
考えてみてください>ABO FANさん
このコメントへの返事は(私は)不要です。考えてさえいただければ。

# なんかこう断言されると、自分に対してものすごく不安になってしまうんですが。(^^;;

これに対し、TAKESANさんから以下のような返信(実に適切な!)をいただいた。太字強調は引用者。
369.TAKESAN 2008/12/27 01:25

>>368

▼▼▼引用▼▼▼
え?えええ???ええとどうしたらいいのでしょう>みなさん
▲▲引用終了▲▲
た、多分、どうしようも無いかと…。


(略)

どうしようもないのか。私はどうしたらいいんでしょう。(^^;;;;

なにか、色々なものが、音をたてて崩れていくような。(^^;;
きっぱりと断言されちゃっているので、自分がいままで使ってきた統計についての概念までもがうっかり崩れそうなんですが。(^^;;;;

まあここは ABO FANさんのロジックのポイントというわけではないので、これを抜きにしても議論は進められると思いますが。しかし今までの議論の蓄積の多くが再検討を迫られるなあ…。

大事なのは何をするかではなく何をしないか、だ

 えーと、行きがかり上ではあるのですが、戦線を拡大しすぎておるな。(^^;;
 これ↓の4人のうちの3人と同時並行というのはちょっとつらいので、明日からまたAさんに絞るつもりですが。
   「ニセ科学批判について読んでいる中でで出てきそうな人物」
 とか書いてると、4人目が来たりして。

 本当は、「大槻教授の最終抗議」とか「まんがで読む資本論」とかの感想なんかも書きたいのですが、手が回りまへん。(^^;;
 どっちも面白かったですが、大槻さんの血液型性格判断批判は、批判としては不十分ですね。心理学からのアプローチが無視されてる。もしかしたら知らないのかも。まあ社会問題として捉えた場合には、ああいう批判でもしないよりはいいのだとは思いますが。

 さてさて。

「ニセ科学批判への違和感の本質」への違和感

 昨日、論宅氏のエントリを批判する形で「科学とスピリチュアルと相対主義」というエントリ を書いた。そうしたら、それへの回答のようなエントリが新たにあげられていた(「ニセ科学批判への違和感の本質」 )。もちろん、私に対してというより、「(考え中)」さんへの回答なのだろうけど、論宅氏の意図はともかく、私のエントリに対応している部分が多であるので、幾つかコメントしておく。

 論宅氏に典型的なのが、「事実そのもの」と「事実とみなされているもの」を混同していることである。特に、科学においては、人間が(たとえば)法則として認識しているものは「事実そのもの」ではなく大勢の科学者によって現在のところ近似的に「事実とみなされているもの」である。仮にある事象について科学者全員が同じ認識を持っていたところで、常にそれが事実ではないという可能性が留保される。その可能性の大小は別にして。
 論宅氏は「それは同じものだ」と言うかもしれない。ならば、科学では違うものとして扱っている、としか答えようがない。違うとするから科学は発展していくのだ。そのダイナミズムを忘れ、静的なものとすれば分析は間違う。

 さて、具体的な主張の分析に移ろう。順番は入れ替わるが御容赦願いたい。
科学主義者は、科学という方法で認識すれば、万人が同一の認識内容を得ることができ、人類共通の知識、技術として共有できると考える。一方、主観的事実とは、特定の個人にしか立ち現れない認識内容である。
まず前半。そんな単純ではない。いやもちろん論宅氏がここでは単純化して語っているだけだと信じたいが、念のため述べておく。科学という方法で認識されたことが論文なり教科書なり製品となって流通するなりすることで徐々に共有されていくわけだが、必ずしも同一とは限らない。その解釈も場合によっては様々で、そこに論争も起こる。複雑なプロセスを経て、次第に共有されていくのだ。そのプロセスの中には別の側面からの実験なども含まれるだろう。様々な面から検討されつつ共有されていく。そうやって「ほぼ間違いがないだろう」という認識が共通のものになっていくのである。
 ついでに言えば、有名なレーニンの言葉「電子といえどもくみつくせるものではない」に代表されるように、認識しようとする対象についての認識も完全であるとは限らない。しかし、電子というものが人類の思考を離れてなお存在するに違いないという信念(作業仮説と言いかえてもよいだろう)が、電子についてより深い認識を求める原動力になる。今回ノーベル物理学賞を受賞した益川敏英氏も、この言葉を引いて自身の研究の指針について述べている 。論宅氏は、自然の奥深さについて、もう少し想像をめぐらした方がよい。
 次に後半であるが、そのこともニセ科学批判の文脈で随分と語られてきた。藤野恵美「七時間目のUFO研究」が kikulog で紹介される やいなや大勢に絶賛されたのは記憶されている方も多いだろう。「UFOを見た」と信じる友人にとっての主観的事実と実際はUFOはなかったという客観的事実の違いが、子どもにもわかるように小説の中で説明されている。ホメオパシーや各種の代替医療などの話題でも、「治った」という経験談が主観的事実に過ぎない場合が多々あり、経験談を直ちに(薬効についての)客観的事実とするのは誤りである、ということが何度も何度も語られている。 
 従って、以下のような言明も、当然織り込みずみである。
霊能力者がオーラが見えるというのは、主観的感覚のレベルの話であり、客観的事実とは異なる心理的事実である。従って、客観的事実として見なすのはカテゴリーの混同である。
 さらに、カテゴリーを混同しているのは「霊能力者」の側である。オーラが客観的なものとして扱っているわけだ。江原などの「霊能力者」にしかオーラが見えないということになっているとしても、信奉者はそれを客観的事実として受け止める。実際、オーラの写真を取ります、というようなところは全国にいくらでもあるではないか。それはつまり、心理的事実にとどまらず、客観的事実でもあるという主張を彼らがしているという証左でもあるのだ。論宅氏は、オーラ写真についてはどう考えるのか?
だから、多くの場合、ニセ科学批判では「それは客観的事実ではない」と批判がなされる。批判者が客観的事実とみなしているのではなく、提唱者が客観的事実としているのだ。であるから、科学の文脈で批判されるのは当然と言えよう。

 そういうわけで、下の文章も的外れである。
 以前、私は、ニセ科学批判は、人々から科学と呼ばれるものだけに限定し、科学内部の闘争に止めるべきだという趣旨でエントリーを書いた。つまり、スピリチュアルや占いや宗教などの社会における他の分野の文化を対象にすることは慎むべきだということを書いた。科学による文化破壊によって、人々の選択肢が減ることを懸念していたのである。
江原啓之や江本勝が科学の内部に入ってくるから「闘争」になるのであって、入ってこなければ、科学の立場から批判されることはなかったはずである(別の文脈での批判は当然あり得る)。論宅氏には、ぜひ江原や江本に科学の分野に入ることは慎むべきだと言ってもらいたい。
 ついでに揶揄になるが、論宅式相対主義の立場を援用すれば、論宅氏の批判によってニセ科学批判の選択肢が減ることも懸念されるべきではないか?中身を問わずに選択肢を減ることを懸念するのであれば、論宅氏はあらゆることに対して口をつぐむべきである。なぜなら発言するというそのこと自体がある立場に立脚していることを表明していることに他ならず、その立場に対立するものへの攻撃になるからである。
 さらについでに言っておくなら、ニセ科学批判は言論出版の自由のもとでの批判である。ここは人によって立場の違いはあるだろうが、可能な限り、法的規制などが入ることは避けたい。人に危害を及ぼすような場合は仕方ないが(効果のない・副作用の強い薬品あるいは薬品モドキや悪徳商法の類)、そうでなければ、言論での対抗にとどめるべきであると私は考える。たとえ江原や江本であっても、言論出版の自由は当然認められるべきだろう。
 関連して言えば、江原や江本のような主張が放置されることが、言論の自由を掘り崩すことになりかねないという危険性も認識されるべきである。これは民主主義が絶対の真であるなどというバカげた主張に基づくのではなく、私は民主主義の社会に暮したいと思っているからである。そういう価値観の表明である。
 視点は変わるが、ニセ科学批判者がニセ科学のレッテルをはる対象に対して、必ずしも人々は客観的事実として受け取っているとは限らない。血液型性格判断は科学ではなく占いとして受け取り、水伝はロマンとして受け取り、クーラーの機能さえあればマイナスイオンはどうでもいいやと思っている人もいるし、ゲーム脳は勉強をさせるための方便として利用している親もいる。これらを科学や客観的事実を装う対象として認識するように、人々に強制する権利はない。もしニセ科学批判者がニセ科学のレッテルをはる対象に対して、全ての人々も科学や客観的事実として観察していると思い込んでいるのなら、かなり非現実的である。大衆を馬鹿にしているとしか言いようがない。思い上がりである。つまり、ある言説、学説、商品の機能や効能を客観的事実として受け取るかどうかは、受け取る人々の観察コードによる。
こういう言明で馬脚が表れるのだが、「必ずしも人々は客観的事実として受け取っているとは限らない」、それはその通りだしそんなことは自明とさえ言えるのだが、これはつまり論宅氏も、客観的事実として受け取っている人がいると考えていることの表明であろう。科学と思わない人はそれでいいのである。問題は、提唱者が科学を自称していたり、明言はしていなくても普通に考えれば科学だととらえられるような言い方をしている場合である。
 たとえば、血液型性格判断のブームを作った能見正比古・俊賢親子は、「科学」であると主張している。彼らの「NPO血液型人間科学研究センター 」のサイトでも見てみるといい。団体名からして科学を名乗っているではないか。これでも科学を装っていないというなら、そんな社会学は無意味であり無力である。
 これらを科学と思わない人は思わなくていい。科学でないのに科学であると思わせる構造になっていることが問題なのだ。「全ての人々も科学や客観的事実として観察していると思い込んでいるのなら」などと仮定してしまえるところが、科学者やニセ科学批判をする者を馬鹿にしているとしか言いようがなく、まさに思い上がりである。こんなことは、当然の前提だ。

 次の論点。
 人に対して客観的事実と異な り間違っていると指摘することは、暴力を伴うことがある。つまり、我々の見方が多くの人々の見方で正しく、あなたの見方は訂正しなければならないという圧 力となるのである。ニセ科学批判者たちが、科学を利用して、スピリチュアルや占いを闇雲に批判しまくるのは、一種の暴力としても観察できるのである。
やれやれ、民主主義社会における言論とは何か、というところから話を始めないといけないのだろうか?
 まず第一点、ここでの「暴力」は、物理的力ではないということは念のため確認しておこう(論宅氏に対してではなく、読者に対して)。
 次に、論宅氏が己の考えをブログを通じて全世界へ広めるという行為も、相対主義のレベルでは、ニセ科学批判と同等だろう。論宅氏だけが「絶対」であり、論宅氏が他人を批判するのはニセ科学批判とは違うというのであれば、それは自らの主張を否定するだけだ。
 そして、批判を暴力と批判するのであれば、それは批判されるべきことを全世界に向けて公にすれば当然批判され得るという当たり前のことを否定しようとすることになる。論宅氏の意図はともかく、客観的にはそういう方向に働く。
 最後に、「科学を利用して」批判しているというのはミスリーディングである。スピリチュアルや占いが科学であると装うから科学の立場から批判するのである。科学で批判するのはあくまでも客観的な事実関係だ。それ以外の部分で批判されるなら、それは科学の文脈とは別の点で批判されているのだ(「水伝」の道徳についての部分など)。
ニ セ科学批判者やその周辺者たちがピラニアのごとくコメントしてくる社会病理現象はよく知られている。その言説の暴力性は凄まじい。ニセ科学批判に賛同する 社会学者をほとんど見かけないのは、このような違和感に由来していると思われる。手を出せず、沈黙を守る社会学者がほとんどである。言いたいことが言えな い状況かもしれない。
「社会病理現象」として「よく知られている」?そうなんですか。知らなかった。
 一般に、批判には節度は必要だと思うし、効果的な批判のためにはどうすればいいか考えるべきだとは思う。場合によっては「炎上」的になることもあるのかもしれないが、たいていは普通の批判だろう。
 ニセ科学批判の「暴力性」を批判したいのなら、具体的にどういう「暴力」があったかを取り上げて分析すればよいのだ。それは、ニセ科学批判をする者にとっても役に立つものになるだろう。
 なお、社会学者が沈黙しているかどうか知らないが、戦前の日本じゃあるまいし学者であるなら言いたいことは言えよと思う。ニセ科学の社会学などはどんどん進めてほしいテーマだし、ニセ科学批判の社会学だっていいだろう。木原善彦「UFOのポストモダン」は実に面白かった。どんどんやればいいのである。

 論宅氏に必要なのは、具体論の展開だ。具体論に踏み込めないようでは、何を言っても無力である。

七時間目のUFO研究 講談社青い鳥文庫 245-3/藤野 恵美
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UFOとポストモダン (平凡社新書)/木原 善彦
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江本勝ブログ12/6: スカラー波かよっ!

 久々に江本勝のブログが更新されたので見てみたら、12月は東南アジアをまわられていたようである。タイの事件の影響で遠回りしたりもしたようで、御苦労なことでした。

 さて、今回は、マレーシアの「FusionExcel」という「国際ネットワークシステム企業」(ってなにかしらん)のお招きだそうな。こんなこと言ってはります(太字強調は引用者)。
フュージョンエキセル社は、マレーシアに本部を持つ国際ネットワークシステム企業です。その商品がスカラーエネルギーを基本としたもので、いわゆる未知のエネルギーを商品化したものですから、私どもの結晶写真撮影技術に注目し、商品の撮影依頼などが過去にありました。
その結果、マニラ、バンコク、クアランプール、ジャカルタにおいて、そのディストリビューターを集めての大会が今回開かれることになったのです。
なんだこりゃ。(^^;;
いや一般にメカニズムがわからなくても効果が検証されていれば商品化することに問題はないけれども、しかしスカラー波かあ…。なんでもアリだな、江本勝。
 ちなみにこのセミナー、1500名ほどのディストリビューターが参加されたそうです。あれ?FusionExcelの記事 では、1100名ってなってるけど…。翌日のバンコクには、5200名だそうな。

 この FusionExcel という会社、これがそのウェブページ らしいのだけれども、あちこちに江本のことが書いてある。"World Renowned Scientist, Dr. Masaru Emoto" ですってよ。Scientist ですよ、Poet じゃなくってね! 聞いてる?論宅さん。
 どんな会社かよくわからないのだが(Products とか見ると、Quantum Pendant なんて売ってるから、まあアレなんだろうけど。スカラー波がらみのが見当たらない?)、Income ってところを見てみると…なんだこれ、なんかマルチっぽいんだが…。まあ江本や船井幸雄が「ネットワークビジネス」を礼賛しているのは知られているところなので、今更驚きはしませんが。

 バンコクセミナーについてのページ では、参加者の一人として「Methawat Thewan Sapsaenyakorn (Father of Thai Jazz)」なんて書いてあったりして。ジャズについては私はよく知らないんですが、悲しいね。


科学とスピリチュアルと相対主義

 正直あまり触れたくないのだが、論宅氏のエントリ「世界論と真理観についての相対主義」 について述べたい。事情は最後に触れる。

 先日、私は「認識と信頼の階層性」というエントリ で、江原啓之のような安易なスピリチュアルな主張への批判として、複数の側面を考慮する必要があるということを述べた。
たとえば私は江原啓之などの安易な「スピリチュアル」についても色々と批判をしている。その場合、私にとっては、次の二つの観点からの批判になる。

(1)その主張の客観的事実に関する側面。オーラが存在するとか。大槻義彦氏が批判するのもこの点ですね。でも、それが彼らの主張のすべてではないということには留意しなければならない。しかし、客観的に間違いと言える部分はどうやったって間違いなのであり、間違いを科学的に正しいかのように言うのはニセ科学と言っても私は良いと考える。意味を拡散させないためには、もしかしたら「○○のニセ科学的側面」のように使う方が混乱しなくていいのかもしれないが(○○には例えばスピリチュアル或いは江原啓之の主張、などが入る)。

(2)その思想がもたらす社会的影響。これは自然科学の問題ではない。自由と民主主義をいかに守り発展させるかという価値観が前面に出る話だ。例えば自分に悪い事が起こったのが自分の祈りが足りないせいであると言うのなら、あらゆる行為は自己責任であり、己に責があるということになる。正社員になれないのも、首を切られるのも、派遣が打ち切りにされるのも、ホームレスになるのも自分の責任ということになる。私はそんな社会はゴメンだ。だから、そんな思想がはびこらないよう、その側面も批判する。
つまり、江原(や江本勝など)らによる一つの言説の中にも、分析してみれば、科学の爼上に乗る客観的事実について語っている部分と、価値観に基づく思想の部分とが同居しており、特に彼らの言説については、そのどちらもがそれ自体で批判の対象となり得る(だから私はそれぞれの面から批判する)ということだ。
 無論、場合によってはその複数の側面が一体化しており、どちらが欠けても主張として成り立たない場合も往々にしてある。「水伝」(水からの伝言)がいい例で、そのあたりについては hietaro さんの「『水からの伝言』の2つの側面」 で明解に述べられている。

 一方、論宅氏は、上記エントリの中で、真理観は以下のように4つに分けることができると述べている。
物理的世界=対応説 物理的事実  
心理的世界=整合説 心理的(精神的)事実 
社会的世界=合意説 社会的事実 
世界そのもの=世界の無限の複雑性(三世界を含む全体世界)=実用説 形而上学的事実
そして、論宅式社会学が「実用説」であり、それのみが三世界すべてに関わることが可能、と説く。「可能だって言うだけじゃなくて、具体的にみろよ」とツッコミの一つも入れたくなるが、そこは措いておこう。
 これを踏まえた上で、次のように語っている。
 ニセ科学批判者たちによるスピリチュアル批判は、真理の対応説に準拠している。しかし、江原氏などのスピリチュアルカウンセラーは、真理の対応説には準拠しておらず、真理の整合説や実用説などに準拠し、物語として語っている。
(中略)
 手厳しいかもしれないが、多くの場合、議論が噛み合ないのは、相手がどの真理観に準拠して発言しているのか類推する想像力が欠如しているからである。議論に際しては、全ての真理観を使い分ける器用さが必要なのである。
 この主張、「水伝」に即して言えば、「江本はポエムだって言ってんだから、科学でどういう言わなくったっていいじゃん」ということになる。ポエムと言ってるんだから、ポエムとして議論せよ、と。
 いやもう何度も議論されているのでここで再び繰り返すのもバカバカしいのだが、ポエムの世界に留まってくれないから、科学の土俵に上がってくるから、科学の立場から批判しているわけだ。江本がポエムと言っているから、江原が夢物語と言っているから、じゃあそうなんですね、と納得せよとでも言うのだろうか。
 議論が噛み合わないのは、江本や江原が御都合主義的、場当たり的に主張を変え、批判に対して批判者側の真理観とわざと違えた真理観に基づいて対応しているから噛み合わないのだ。「こういう結晶ができます」「こういうオーラが見えます」というのであれば、それは当然客観的事実として主張されているのであり、当然科学として批判にさらされることになる。科学として批判されるもののうちには、「ありがとうと言いましょう」「感謝して生きましょう」みたいなものは含まれない。それはまた別に、思想として、価値観に基づいて批判されるものだ。

 もし論宅氏が本気で自分で書いたことに責任を持つつもりなら、たとえば江本の「実験事実」なるものに対して、「それは科学ではない」「ポエムなんだから、科学と紛らわしい体裁は取るな」と批判すべきなのである。論宅氏言うところの「整合説」「実用説」の範囲に留まっておれ、と言うべきなのだ。そうすれば、わざわざ科学の立場から批判する必要はなくなる。

 論宅氏の主張から感じるのだが、どうも氏は、「対象がどのカテゴリーに属するか分析せよ」とは言っても、対象を構成する個別の言明がどのようなカテゴリーに属するのかを分析しようという気はないようだ。つまり、江本はポエムで江原は夢物語、と一言で済ましてしまえると思っているように見える。
 この単純思考はどこから来るのだろうな。メタなことばっかり考えて、具体論に入ってこないからということと関係しているのではないか、とも思うのだが、どうだろうか。

 ところで、最初に引用した私の文章だが、2つに分けているのは、当然前半は客観的事実に関わる科学的命題、後半は自由や民主主義といった、ほぼ普遍的に見えるがしかしやはり客観的事実に基づくものではない価値的命題に属しているということによる。価値的命題である以上、万人に当てはまる普遍的に「正しい」価値観であるなどと言うつもりはない。そんなことは、「水伝」の道徳についての批判でこれまで山程語られてきたことだ。
 自由や民主主義は、しかしその一方で、憲法にも書かれ、多くの日本人にとっては「正しい」と認められる価値観であることもまた事実だろう。その中身については多少の違いはあれど。そして、私自身もまた正しいと思っているし、それが実現される社会でありたいと思っている。
 自分が正しいと思うことを主張するのは民主主義社会のイロハである。私は「私はそんな社会はゴメンだ」と書いたとおり、私の価値観が、多くの人々に受け入れられ、この社会で実現してほしいと思って書いているのだ(そして、それはすでに憲法にも書かれている通り、この社会の原則でもあるのだ。少なくとも建前上は)。

 この世界で生きるのに科学がすべてではない。何度も何度も何度も繰り返しそのことは多くの人によって語られている。論宅氏には、そろそろそのあたりを理解してもらいたいと思うのだが…。


 ところで、普段は脱力するだけなので読まない論宅氏のブログであるが、今回取り上げたのは、実は論宅氏の当該エントリ、公開当初は今回私が自分で引用した私のエントリを名指しで批判していたようなのだ。
 現在はリンク先を見てもわかる通り、一般論として書かれ、どこにも私のブログのことは書かれていない。どういう意図でその部分を修正したかは知る由もない。公開してから、私のエントリの内容が、自分で書いたことと噛み合っていないと気づいたからなのか、名指しで批判はしてみたものの、やはりいつものように一般論で書くべきと思い直したからなのか、それとも別の理由があるのか。それはまあどうでもいい。悩ましいのは、消去したからには、消す前の文章についてアレコレ言うのはどうかと思いつつ、しかし google のキャッシュには残っていて、誰でも見られるようになってしまっているということだ(リンクはいちおう張りません)。
 名指しで批判すること自体は全然構わないし、論点を明らかにするという意味ではむしろ好ましいと言える。ただ、こういう中途半端な状態だと、言われたからには応答はしたいし、しかし本体の方はもう消されちゃっているし、でどうすべきなのかがよくわからない。

 ただ、そうこうしているうち、こんな記事に出くわしてしまった(「ニセ科学批判記事に抱く違和感」(考え中)) こともあり、なんらかの形で私の意見をパブリックにしておくことは価値があろうと考えて記事にしてみた次第である。本体の方が既に消去されていること、私に対する批判の部分がなくても、当該記事は完結していることから、このエントリでも、メインの部分では現在のバージョンの記事を元に書いてみた。