科学とスピリチュアルと相対主義 | ほたるいかの書きつけ

科学とスピリチュアルと相対主義

 正直あまり触れたくないのだが、論宅氏のエントリ「世界論と真理観についての相対主義」 について述べたい。事情は最後に触れる。

 先日、私は「認識と信頼の階層性」というエントリ で、江原啓之のような安易なスピリチュアルな主張への批判として、複数の側面を考慮する必要があるということを述べた。
たとえば私は江原啓之などの安易な「スピリチュアル」についても色々と批判をしている。その場合、私にとっては、次の二つの観点からの批判になる。

(1)その主張の客観的事実に関する側面。オーラが存在するとか。大槻義彦氏が批判するのもこの点ですね。でも、それが彼らの主張のすべてではないということには留意しなければならない。しかし、客観的に間違いと言える部分はどうやったって間違いなのであり、間違いを科学的に正しいかのように言うのはニセ科学と言っても私は良いと考える。意味を拡散させないためには、もしかしたら「○○のニセ科学的側面」のように使う方が混乱しなくていいのかもしれないが(○○には例えばスピリチュアル或いは江原啓之の主張、などが入る)。

(2)その思想がもたらす社会的影響。これは自然科学の問題ではない。自由と民主主義をいかに守り発展させるかという価値観が前面に出る話だ。例えば自分に悪い事が起こったのが自分の祈りが足りないせいであると言うのなら、あらゆる行為は自己責任であり、己に責があるということになる。正社員になれないのも、首を切られるのも、派遣が打ち切りにされるのも、ホームレスになるのも自分の責任ということになる。私はそんな社会はゴメンだ。だから、そんな思想がはびこらないよう、その側面も批判する。
つまり、江原(や江本勝など)らによる一つの言説の中にも、分析してみれば、科学の爼上に乗る客観的事実について語っている部分と、価値観に基づく思想の部分とが同居しており、特に彼らの言説については、そのどちらもがそれ自体で批判の対象となり得る(だから私はそれぞれの面から批判する)ということだ。
 無論、場合によってはその複数の側面が一体化しており、どちらが欠けても主張として成り立たない場合も往々にしてある。「水伝」(水からの伝言)がいい例で、そのあたりについては hietaro さんの「『水からの伝言』の2つの側面」 で明解に述べられている。

 一方、論宅氏は、上記エントリの中で、真理観は以下のように4つに分けることができると述べている。
物理的世界=対応説 物理的事実  
心理的世界=整合説 心理的(精神的)事実 
社会的世界=合意説 社会的事実 
世界そのもの=世界の無限の複雑性(三世界を含む全体世界)=実用説 形而上学的事実
そして、論宅式社会学が「実用説」であり、それのみが三世界すべてに関わることが可能、と説く。「可能だって言うだけじゃなくて、具体的にみろよ」とツッコミの一つも入れたくなるが、そこは措いておこう。
 これを踏まえた上で、次のように語っている。
 ニセ科学批判者たちによるスピリチュアル批判は、真理の対応説に準拠している。しかし、江原氏などのスピリチュアルカウンセラーは、真理の対応説には準拠しておらず、真理の整合説や実用説などに準拠し、物語として語っている。
(中略)
 手厳しいかもしれないが、多くの場合、議論が噛み合ないのは、相手がどの真理観に準拠して発言しているのか類推する想像力が欠如しているからである。議論に際しては、全ての真理観を使い分ける器用さが必要なのである。
 この主張、「水伝」に即して言えば、「江本はポエムだって言ってんだから、科学でどういう言わなくったっていいじゃん」ということになる。ポエムと言ってるんだから、ポエムとして議論せよ、と。
 いやもう何度も議論されているのでここで再び繰り返すのもバカバカしいのだが、ポエムの世界に留まってくれないから、科学の土俵に上がってくるから、科学の立場から批判しているわけだ。江本がポエムと言っているから、江原が夢物語と言っているから、じゃあそうなんですね、と納得せよとでも言うのだろうか。
 議論が噛み合わないのは、江本や江原が御都合主義的、場当たり的に主張を変え、批判に対して批判者側の真理観とわざと違えた真理観に基づいて対応しているから噛み合わないのだ。「こういう結晶ができます」「こういうオーラが見えます」というのであれば、それは当然客観的事実として主張されているのであり、当然科学として批判にさらされることになる。科学として批判されるもののうちには、「ありがとうと言いましょう」「感謝して生きましょう」みたいなものは含まれない。それはまた別に、思想として、価値観に基づいて批判されるものだ。

 もし論宅氏が本気で自分で書いたことに責任を持つつもりなら、たとえば江本の「実験事実」なるものに対して、「それは科学ではない」「ポエムなんだから、科学と紛らわしい体裁は取るな」と批判すべきなのである。論宅氏言うところの「整合説」「実用説」の範囲に留まっておれ、と言うべきなのだ。そうすれば、わざわざ科学の立場から批判する必要はなくなる。

 論宅氏の主張から感じるのだが、どうも氏は、「対象がどのカテゴリーに属するか分析せよ」とは言っても、対象を構成する個別の言明がどのようなカテゴリーに属するのかを分析しようという気はないようだ。つまり、江本はポエムで江原は夢物語、と一言で済ましてしまえると思っているように見える。
 この単純思考はどこから来るのだろうな。メタなことばっかり考えて、具体論に入ってこないからということと関係しているのではないか、とも思うのだが、どうだろうか。

 ところで、最初に引用した私の文章だが、2つに分けているのは、当然前半は客観的事実に関わる科学的命題、後半は自由や民主主義といった、ほぼ普遍的に見えるがしかしやはり客観的事実に基づくものではない価値的命題に属しているということによる。価値的命題である以上、万人に当てはまる普遍的に「正しい」価値観であるなどと言うつもりはない。そんなことは、「水伝」の道徳についての批判でこれまで山程語られてきたことだ。
 自由や民主主義は、しかしその一方で、憲法にも書かれ、多くの日本人にとっては「正しい」と認められる価値観であることもまた事実だろう。その中身については多少の違いはあれど。そして、私自身もまた正しいと思っているし、それが実現される社会でありたいと思っている。
 自分が正しいと思うことを主張するのは民主主義社会のイロハである。私は「私はそんな社会はゴメンだ」と書いたとおり、私の価値観が、多くの人々に受け入れられ、この社会で実現してほしいと思って書いているのだ(そして、それはすでに憲法にも書かれている通り、この社会の原則でもあるのだ。少なくとも建前上は)。

 この世界で生きるのに科学がすべてではない。何度も何度も何度も繰り返しそのことは多くの人によって語られている。論宅氏には、そろそろそのあたりを理解してもらいたいと思うのだが…。


 ところで、普段は脱力するだけなので読まない論宅氏のブログであるが、今回取り上げたのは、実は論宅氏の当該エントリ、公開当初は今回私が自分で引用した私のエントリを名指しで批判していたようなのだ。
 現在はリンク先を見てもわかる通り、一般論として書かれ、どこにも私のブログのことは書かれていない。どういう意図でその部分を修正したかは知る由もない。公開してから、私のエントリの内容が、自分で書いたことと噛み合っていないと気づいたからなのか、名指しで批判はしてみたものの、やはりいつものように一般論で書くべきと思い直したからなのか、それとも別の理由があるのか。それはまあどうでもいい。悩ましいのは、消去したからには、消す前の文章についてアレコレ言うのはどうかと思いつつ、しかし google のキャッシュには残っていて、誰でも見られるようになってしまっているということだ(リンクはいちおう張りません)。
 名指しで批判すること自体は全然構わないし、論点を明らかにするという意味ではむしろ好ましいと言える。ただ、こういう中途半端な状態だと、言われたからには応答はしたいし、しかし本体の方はもう消されちゃっているし、でどうすべきなのかがよくわからない。

 ただ、そうこうしているうち、こんな記事に出くわしてしまった(「ニセ科学批判記事に抱く違和感」(考え中)) こともあり、なんらかの形で私の意見をパブリックにしておくことは価値があろうと考えて記事にしてみた次第である。本体の方が既に消去されていること、私に対する批判の部分がなくても、当該記事は完結していることから、このエントリでも、メインの部分では現在のバージョンの記事を元に書いてみた。