「ニセ科学批判への違和感の本質」への違和感 | ほたるいかの書きつけ

「ニセ科学批判への違和感の本質」への違和感

 昨日、論宅氏のエントリを批判する形で「科学とスピリチュアルと相対主義」というエントリ を書いた。そうしたら、それへの回答のようなエントリが新たにあげられていた(「ニセ科学批判への違和感の本質」 )。もちろん、私に対してというより、「(考え中)」さんへの回答なのだろうけど、論宅氏の意図はともかく、私のエントリに対応している部分が多であるので、幾つかコメントしておく。

 論宅氏に典型的なのが、「事実そのもの」と「事実とみなされているもの」を混同していることである。特に、科学においては、人間が(たとえば)法則として認識しているものは「事実そのもの」ではなく大勢の科学者によって現在のところ近似的に「事実とみなされているもの」である。仮にある事象について科学者全員が同じ認識を持っていたところで、常にそれが事実ではないという可能性が留保される。その可能性の大小は別にして。
 論宅氏は「それは同じものだ」と言うかもしれない。ならば、科学では違うものとして扱っている、としか答えようがない。違うとするから科学は発展していくのだ。そのダイナミズムを忘れ、静的なものとすれば分析は間違う。

 さて、具体的な主張の分析に移ろう。順番は入れ替わるが御容赦願いたい。
科学主義者は、科学という方法で認識すれば、万人が同一の認識内容を得ることができ、人類共通の知識、技術として共有できると考える。一方、主観的事実とは、特定の個人にしか立ち現れない認識内容である。
まず前半。そんな単純ではない。いやもちろん論宅氏がここでは単純化して語っているだけだと信じたいが、念のため述べておく。科学という方法で認識されたことが論文なり教科書なり製品となって流通するなりすることで徐々に共有されていくわけだが、必ずしも同一とは限らない。その解釈も場合によっては様々で、そこに論争も起こる。複雑なプロセスを経て、次第に共有されていくのだ。そのプロセスの中には別の側面からの実験なども含まれるだろう。様々な面から検討されつつ共有されていく。そうやって「ほぼ間違いがないだろう」という認識が共通のものになっていくのである。
 ついでに言えば、有名なレーニンの言葉「電子といえどもくみつくせるものではない」に代表されるように、認識しようとする対象についての認識も完全であるとは限らない。しかし、電子というものが人類の思考を離れてなお存在するに違いないという信念(作業仮説と言いかえてもよいだろう)が、電子についてより深い認識を求める原動力になる。今回ノーベル物理学賞を受賞した益川敏英氏も、この言葉を引いて自身の研究の指針について述べている 。論宅氏は、自然の奥深さについて、もう少し想像をめぐらした方がよい。
 次に後半であるが、そのこともニセ科学批判の文脈で随分と語られてきた。藤野恵美「七時間目のUFO研究」が kikulog で紹介される やいなや大勢に絶賛されたのは記憶されている方も多いだろう。「UFOを見た」と信じる友人にとっての主観的事実と実際はUFOはなかったという客観的事実の違いが、子どもにもわかるように小説の中で説明されている。ホメオパシーや各種の代替医療などの話題でも、「治った」という経験談が主観的事実に過ぎない場合が多々あり、経験談を直ちに(薬効についての)客観的事実とするのは誤りである、ということが何度も何度も語られている。 
 従って、以下のような言明も、当然織り込みずみである。
霊能力者がオーラが見えるというのは、主観的感覚のレベルの話であり、客観的事実とは異なる心理的事実である。従って、客観的事実として見なすのはカテゴリーの混同である。
 さらに、カテゴリーを混同しているのは「霊能力者」の側である。オーラが客観的なものとして扱っているわけだ。江原などの「霊能力者」にしかオーラが見えないということになっているとしても、信奉者はそれを客観的事実として受け止める。実際、オーラの写真を取ります、というようなところは全国にいくらでもあるではないか。それはつまり、心理的事実にとどまらず、客観的事実でもあるという主張を彼らがしているという証左でもあるのだ。論宅氏は、オーラ写真についてはどう考えるのか?
だから、多くの場合、ニセ科学批判では「それは客観的事実ではない」と批判がなされる。批判者が客観的事実とみなしているのではなく、提唱者が客観的事実としているのだ。であるから、科学の文脈で批判されるのは当然と言えよう。

 そういうわけで、下の文章も的外れである。
 以前、私は、ニセ科学批判は、人々から科学と呼ばれるものだけに限定し、科学内部の闘争に止めるべきだという趣旨でエントリーを書いた。つまり、スピリチュアルや占いや宗教などの社会における他の分野の文化を対象にすることは慎むべきだということを書いた。科学による文化破壊によって、人々の選択肢が減ることを懸念していたのである。
江原啓之や江本勝が科学の内部に入ってくるから「闘争」になるのであって、入ってこなければ、科学の立場から批判されることはなかったはずである(別の文脈での批判は当然あり得る)。論宅氏には、ぜひ江原や江本に科学の分野に入ることは慎むべきだと言ってもらいたい。
 ついでに揶揄になるが、論宅式相対主義の立場を援用すれば、論宅氏の批判によってニセ科学批判の選択肢が減ることも懸念されるべきではないか?中身を問わずに選択肢を減ることを懸念するのであれば、論宅氏はあらゆることに対して口をつぐむべきである。なぜなら発言するというそのこと自体がある立場に立脚していることを表明していることに他ならず、その立場に対立するものへの攻撃になるからである。
 さらについでに言っておくなら、ニセ科学批判は言論出版の自由のもとでの批判である。ここは人によって立場の違いはあるだろうが、可能な限り、法的規制などが入ることは避けたい。人に危害を及ぼすような場合は仕方ないが(効果のない・副作用の強い薬品あるいは薬品モドキや悪徳商法の類)、そうでなければ、言論での対抗にとどめるべきであると私は考える。たとえ江原や江本であっても、言論出版の自由は当然認められるべきだろう。
 関連して言えば、江原や江本のような主張が放置されることが、言論の自由を掘り崩すことになりかねないという危険性も認識されるべきである。これは民主主義が絶対の真であるなどというバカげた主張に基づくのではなく、私は民主主義の社会に暮したいと思っているからである。そういう価値観の表明である。
 視点は変わるが、ニセ科学批判者がニセ科学のレッテルをはる対象に対して、必ずしも人々は客観的事実として受け取っているとは限らない。血液型性格判断は科学ではなく占いとして受け取り、水伝はロマンとして受け取り、クーラーの機能さえあればマイナスイオンはどうでもいいやと思っている人もいるし、ゲーム脳は勉強をさせるための方便として利用している親もいる。これらを科学や客観的事実を装う対象として認識するように、人々に強制する権利はない。もしニセ科学批判者がニセ科学のレッテルをはる対象に対して、全ての人々も科学や客観的事実として観察していると思い込んでいるのなら、かなり非現実的である。大衆を馬鹿にしているとしか言いようがない。思い上がりである。つまり、ある言説、学説、商品の機能や効能を客観的事実として受け取るかどうかは、受け取る人々の観察コードによる。
こういう言明で馬脚が表れるのだが、「必ずしも人々は客観的事実として受け取っているとは限らない」、それはその通りだしそんなことは自明とさえ言えるのだが、これはつまり論宅氏も、客観的事実として受け取っている人がいると考えていることの表明であろう。科学と思わない人はそれでいいのである。問題は、提唱者が科学を自称していたり、明言はしていなくても普通に考えれば科学だととらえられるような言い方をしている場合である。
 たとえば、血液型性格判断のブームを作った能見正比古・俊賢親子は、「科学」であると主張している。彼らの「NPO血液型人間科学研究センター 」のサイトでも見てみるといい。団体名からして科学を名乗っているではないか。これでも科学を装っていないというなら、そんな社会学は無意味であり無力である。
 これらを科学と思わない人は思わなくていい。科学でないのに科学であると思わせる構造になっていることが問題なのだ。「全ての人々も科学や客観的事実として観察していると思い込んでいるのなら」などと仮定してしまえるところが、科学者やニセ科学批判をする者を馬鹿にしているとしか言いようがなく、まさに思い上がりである。こんなことは、当然の前提だ。

 次の論点。
 人に対して客観的事実と異な り間違っていると指摘することは、暴力を伴うことがある。つまり、我々の見方が多くの人々の見方で正しく、あなたの見方は訂正しなければならないという圧 力となるのである。ニセ科学批判者たちが、科学を利用して、スピリチュアルや占いを闇雲に批判しまくるのは、一種の暴力としても観察できるのである。
やれやれ、民主主義社会における言論とは何か、というところから話を始めないといけないのだろうか?
 まず第一点、ここでの「暴力」は、物理的力ではないということは念のため確認しておこう(論宅氏に対してではなく、読者に対して)。
 次に、論宅氏が己の考えをブログを通じて全世界へ広めるという行為も、相対主義のレベルでは、ニセ科学批判と同等だろう。論宅氏だけが「絶対」であり、論宅氏が他人を批判するのはニセ科学批判とは違うというのであれば、それは自らの主張を否定するだけだ。
 そして、批判を暴力と批判するのであれば、それは批判されるべきことを全世界に向けて公にすれば当然批判され得るという当たり前のことを否定しようとすることになる。論宅氏の意図はともかく、客観的にはそういう方向に働く。
 最後に、「科学を利用して」批判しているというのはミスリーディングである。スピリチュアルや占いが科学であると装うから科学の立場から批判するのである。科学で批判するのはあくまでも客観的な事実関係だ。それ以外の部分で批判されるなら、それは科学の文脈とは別の点で批判されているのだ(「水伝」の道徳についての部分など)。
ニ セ科学批判者やその周辺者たちがピラニアのごとくコメントしてくる社会病理現象はよく知られている。その言説の暴力性は凄まじい。ニセ科学批判に賛同する 社会学者をほとんど見かけないのは、このような違和感に由来していると思われる。手を出せず、沈黙を守る社会学者がほとんどである。言いたいことが言えな い状況かもしれない。
「社会病理現象」として「よく知られている」?そうなんですか。知らなかった。
 一般に、批判には節度は必要だと思うし、効果的な批判のためにはどうすればいいか考えるべきだとは思う。場合によっては「炎上」的になることもあるのかもしれないが、たいていは普通の批判だろう。
 ニセ科学批判の「暴力性」を批判したいのなら、具体的にどういう「暴力」があったかを取り上げて分析すればよいのだ。それは、ニセ科学批判をする者にとっても役に立つものになるだろう。
 なお、社会学者が沈黙しているかどうか知らないが、戦前の日本じゃあるまいし学者であるなら言いたいことは言えよと思う。ニセ科学の社会学などはどんどん進めてほしいテーマだし、ニセ科学批判の社会学だっていいだろう。木原善彦「UFOのポストモダン」は実に面白かった。どんどんやればいいのである。

 論宅氏に必要なのは、具体論の展開だ。具体論に踏み込めないようでは、何を言っても無力である。

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