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mimucus 2006.8

詩の朗読会「mimucus 2006.8」 を鑑賞しました。

以下、感想です。

 
mabito君は、「夏について」を朗読されました。  

静寂を破って朗読がいきなり始まる。夏の思い出がコトバの断片(フラグメント)となって打ち出されてゆく・・・。フラッシュバックするように、夏の光景が心のスクリーンに映し出されては消えてゆく・・・。その断片は、楽しい思い出・悲しい出来事・不思議な間隙等々であったりする。次々と流れていく場面を、いつしか、ただ茫然と眺めている自分に気付く・・・。しかし、それも、いつかは終りを告げる。虫の小さな生命が気まぐれで殺傷されるように、「パタン!」と本が閉じられるように、それは唐突に終わる・・・。この詩の終わり方は禅みたいでとても良かったです!この詩は、夏のバーチャル臨死体験なのでしょうね。一見シンプルだけど、実はとても技巧的な詩だと思いました。作者の意図に、僕は、まんまと、そして心地よく乗せられたのでした。

 

へい太さんは、大蟻喰いに夫を殺された未亡人からのメールを題材にした読み語りでした。

スパムメールなのですが、エロティックな文章よりも、「なぜ、大蟻喰いに殺されるの???」の方が気になる話なのでした。
 

みごなごみ先生は、「喋りつづける雨を背中に」を朗読されました。

言葉の語呂によって、意味が次々と転回してゆく不思議な渦巻きが頭の中に広がっていきます。まるで、Belousov-Zhabotinsky反応 に現れるスパイラルパターンに似ています。(sample )それでいて全くの支離滅裂にはならない不思議な首尾一貫性(セルフコンシステント)を感じさせるのです。今回の作品では、限りなく転回してゆく様は降り続く雨を喚起しました。

BZ反応001  

 

岩本さんは、「BODY」を朗読されました。

昨今は悲惨な事件がニュースで流れるので、とてもリアルに迫ってくるものがありました。そして、この作品で描かれているのは、荒ぶる自然としての身体でした。切り裂けば、臓物や血液がドバッと飛び出るグロテスクな生々しい身体です!そして、それこそがリアルな身体なのです!それはビートの元祖の一人、バロウズ が描いた「裸のランチ 」以来描きつづけられている、ネイキッドな、中身をさらけ出された、むき出しの身体なのです!  

バロウズ001  

 

ホムラさんは、「一大事千差万別」他2編を朗読されました。
1篇目は、イデオロギーが生きていた時代からイデオロギーなき時代への移り変わりの中で、人々の虚しい変遷を描いているように感じました。シュプレヒコールに熱狂的に参加していた者が、今では自宅でTVゲームの瑣末な差異に明け暮れる、そんな虚しさを描いているように感じました。ポストモダン世代が現実に引っ掛かりを持てないという、フラットの虚しさ、リアリティの欠如を描いているのかもしれません・・・。2篇目は、やや内向する精神?を感じました。3篇目は、中也?を感じました。

 

それから、ホムラさん+絵亜反吐さんのユニット"OLD FLAG"が、9月22日(金)にPEPPER LAND でパフォーマンスされるそうです!とっても楽しみですね!

アルベルト・ジャコメッティ展

僕は失恋すると、少し離れた美術館に遠出する。


何故だろうか・・・。


人生の中で、川の流れが一瞬止まるときがある、青天に稲妻が一瞬走るときがある、という・・・。

そんな瞬間を求めて僕は美術館に向かうのかもしれない・・・。


そんなわけで気がつけば、兵庫県立美術館 に着いていた。

安藤忠雄 が設計した、そびえ立つコンクリートの高い壁が僕を迎え入れた。

安藤忠雄  兵庫県立美術館


美術館ではアルベルト・ジャコメッティ の展覧会が開催されていた。

ジャコメッティ

ジャコメッティの作品はとてもシンプルだ。

針のように細長く引きのばされた彫刻、執拗に塗り込められた人物の肖像。

しかし、彼の創作は作品の完成ではなく、求道の過程を表している。

ジャコメッティ作 ジャコメッティ作2 矢内原伊作

写真の発明以来、写実的であることに絵画は敗北した。写実を超えて描かれる対象物の本質を描くことに力が注がれることになる。それはセザンヌ以降の絵画の実験の始まりだった。

 

そんな実験の中でジャコメッティは「見えるがまま」に描くことを模索した。まるで愚直な修行僧のように・・・。

ジャコメッティの友人であり、モデルであり、良き理解者である矢内原伊作は次のようにいっている。


   彼の仕事は見えるがままにぼくの顔を描くということだ。

   見えるがままに描く、

   この一見簡単なことを

   しかし、いったい誰が本当に試みたであろうか。


ジャコメッティにとって、「見えるがまま」とはどういうことだったのだろうか?

それは、サルトル の実存主義がいうところの本質かもしれない。

あるいは、仏教でいうところの直観もしくは正見 かもしれない・・・。

サルトル 釈迦

きっとそれは、対象物を全く客観的に描くということ、つまり絶対的客観なんだろう。

しかし、相対論* にも論理学 的にも絶対的客観なんてありえはしない。


でも、ほんの一瞬だけ、暗雲の中から一筋の光の晴れ間が一瞬覗くようにして、

絶対的客観が現出するような気がしてならない・・・。


そんな瞬間を、主客合一する瞬間を秋山基夫 氏のオカルト詩の中に僕は見出したりするのだ。


それにしても、ジャコメッティは遂に見えるがままに描くことに成功しなかった。

でも、彼はそんなことを意に介さなかった。
彼はいう。


   そんなものはみな大したことではない。

   絵画も彫刻もデッサンも文章も文学も

   そんなものは意味があってもそれ以上のものではない。

   試みること、それが一切だ。

   おお、何たる不思議のわざか。


彼はいつしか意味そのものを超越していたのかもしれない。

大原美術館

大原美術館 は東洋随一の私立美術館です。

大原美術館


大原美術館は本館、分館、工芸館、東洋館から構成され、数多くの収蔵品を展示しています。

たとえ、ひとつの国のナショナルギャラリーとしても、十分通用する収蔵品・名品の数々です。


収蔵品には、エル・グレコ、セザンヌ、ゴーギャン、ドガ、モネ、ルノワール、マチス、イヴ・クライン、フォンタナ、ポロック、イサム・ノグチ、ヘンリー・ムーア、ロダン、児島虎次郎、岸田劉生、棟方志功など名だたる芸術家の作品があります。


また、近代絵画だけでなく、前衛芸術まで展示されています。


さらに、中国、エジプト、イラン、ギリシア、ローマなどの古代美術や日本の工芸品なども展示されています。


まさに世界規模で文化遺産・美術品を広く収蔵しています。



これらは大原孫三郎 が残した貴重な遺産です。

大原孫三郎


彼はお金の使い方の達人でした。

労働、福祉、芸術、学術など多岐に渡る社会事業に財産を投じてきました。

本当に生きたお金の使い方といえるでしょう。


(孤児院を創設した石井十次 との出会いが、彼を大きく変えたようです。)

石井十次


21世紀になって多くのアーティストが、アートとお金の関わりについて意識するようになりました。


村上隆の「芸術起業論」 のように、ビジネスを強く意識したアプローチもあります。


一方で、次のような宮沢賢治の「農民芸術概論」 が思い出されたりします。


     ずゐぶん忙がしく仕事もつらい。

     もっと明るく生き生きと生活をする道を見付けたい。
     ・・・

     いまわれらにはただ労働が 生存があるばかりである。

     ・・・

     芸術はいまわれらを離れ然もわびしく堕落した。

     いま芸術家とは真善若くは美を独占し販るものである。
     われらに購ふべき力もなく 又さるものを必要とせぬ。
     いまやわれらは新たに正しき道を行き われらの美をば創らねばならぬ。

     ・・・

     強く正しく生活せよ 苦難を避けず直進せよ。

     ・・・

     正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである。
     われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である。


     (宮沢賢治「農民芸術概論」 より抜粋)


今よりも厳しい時代にありながら、宮沢賢治はとても高い理想を抱いて実践していたことに驚かされます。


「農民芸術論」が書かれた時代は、作品に触れる機会さえも難しかったのかもしれません・・・。


でも、倉敷には大原美術館があります。

大原美術館2


子どもたちが大原美術館のような美術に間近に触れられることは、とても貴重な体験だと思います。

子どもたちの感性を豊かなものにしてくれます。子どもたちの心を豊かにしてくれます。

すぐには成果は見えません。でも、心のどこかに蓄えられて豊かな人生の糧になると思います。


大原美術館は、先人が残したとても貴重な礎で、身近に触れられる私たちはとても幸せです。

禁酒會館

禁酒會館 はとても不思議な建物です。

禁酒會館

禁酒會館は左右をビルに囲まれて、ひっそりとたたずむ大正モダンな建物です。

3階まである木造建築で部屋がたくさんあって、その一つ一つに違ったお店が入っていたりします。喫茶ラヴィアンカフェCLCブックス岡山店 があります。また、2階ホールでは詩の朗読会タンゴ教室 が開かれたりします。さらに中庭があって舞台が作られています。


そして、禁酒會館には不思議な陰翳があります。

大正モダンの和と洋が柔和に融合した不思議な陰翳があります。なにか隠花植物的な、でも、毒々しさのない健康的な柔らかさを感じます。とても不思議なバランスの上に建っています。


竹久夢二 にも通じる不思議な柔らかいバランスです。

竹久夢二(黒船屋)


そして、文化や芸術などの新しい芽が芽生える苗床のような不思議な場所です。

アングラではない自由で素直な土壌を感じます。


次のような永瀬清子の詩が思い出されます。


    はばかることなくよい思念(おもい)を
    私らは語ってよいのですって。
    美しいものを美しいと
    私らはほめてよいのですって。
    ・・・

 永瀬清子

    私らは語りましょう 語りましょう 手をとりあって
    そしてよい事で心をみたしましょう。

    (「美しい国」より抜粋)


太平洋戦争が終わったとき、永瀬清子は自由の詩を歌いました。今までがんじがらめに縛られていた心の翼を、自由におもいっきり広げて伸ばしたときのウキウキした爽快な気分がよく表われています。国土は焼け野原となって希望など無い状態であったのに、彼女は物質的な豊かさはなくとも、この心があるじゃないかとばかりに高らかと希望の詩を歌います。


この禁酒會館には、この詩のような、とても素直で自由な空気に溢れています。

オリエント美術館

僕は時々、山の中や神社を歩きたくなる。木洩れ日を見上げたり、土を踏みしめたくなる。そうしないと何だか身体の調子が悪くなる。僕にとって、オリエント美術館 はそういった森や神社に代わる場所だ。

オリエント美術館


暗がりの中に展示された古代の器たちが僕を遥か過去へと引き戻す。注口が3つもある壺、周りに子壺を配した壺、動物達を模した土器など、実用的ではないが横断的な意味を込めた器たち。そして、それら土偶を見るとき、僕の中の縄文的感性が時代と場所を越えて共鳴する。そうして言語領域が完成される以前の自分、直感的・野性的・始原的な自分を取り戻す。

土器2  土器1


特別展として「中国古代の暮らしと夢」 が開催されていた。
墓の中へ副葬される明器と呼ばれるミニチュアの展示だった。来世での理想の暮らしのために、様々な物や人をミニチュアに模して埋葬した。祭器は人の道具、明器は鬼神の道具だそうだ。明器にはいろいろな装飾が施されている。例えば、蝉。蝉は死者の再生を象徴しているそうだ。または熊。熊は神獣として四隅を守っていたりする。熊・・・。アイヌのイヨマンテ や宮沢賢治の「なめとこ山の熊」 が思い出される。


また、農民や楽士や舞人など人々をかたどったものを俑(ヨウ)というそうだ。農作業をしたり、音楽を奏でたり、踊っていたりとダイナミックな動きを捉えた人々の姿だ。そのダイナミックに躍動する姿は、あともう少しで漢字という記号に生成される寸前、その一歩手前の状態だ。現実世界を漢字の森(意味世界)で覆い尽くした漢字文明も、死者の世界に対しては記号以前であるミニチュアを用いてモノの魂を託すのだろうか。死後は魂と魄に分かれるという。これらミニチュアには、秩序的な楷書や知的に脱構築した草書とも違う、もっと野性的なスピリチュアルな精神性を感じる。


(そういえば、漢字とはまた違った趣きのあるアラビア書道 なんかも興味深い。)

アラビア書道 アラビア書道2


死者の世界に思いを馳せていたとき、視線を感じて振り返ると、

青く浮かび上がった有翼鷲頭精霊像が死の法官のように僕を見据えていた。
そして、奥の方では黒石に刻まれたハムラビ法典が掟を示して生きる厳しさを教えていた。

有翼鷲頭精霊像  ハムラビ法典


熱に浮かされた僕は、水のせせらぎに導かれて、二階の噴水に辿り着く。


ちょろちょろと流れる噴水の水音だけが静かに聞こえる。
ここはモスクのドームのようであり、嘆きの壁のようでもある。
天窓を見上げると、曙光が差し込んでいる。
まるで、階梯を登ることをヴェルギリウス が誘っているかのようだ。
ここから見上げる天空が僕には天使たちのカタパルトに見えた。

噴水


その後、喫茶イブリクの異国情緒なアラビックコーヒーで目を覚ましたのだった。

アラビックコーヒー

岡山の近代詩人7人展

「岡山の近代詩人7人展」吉備路文学館 )が開催されています。

7人展


内容は、岡山が輩出した7人の詩人、正富汪洋、竹久夢二、有本芳水、赤松月船、木山捷平、永瀬清子、吉塚勤治らの著書、色紙、原稿、書簡、愛用品、写真などの展示でした。


永瀬清子さんと一緒に、若かりし日の三沢浩二先生 がモノクロ写真に写っておられました。


また、2Fでは「吉備路の作家墨書展」も展示されていました。原爆詩 三部作が印象的でした。


また、1Fフロアには岡山を中心とした小説や詩、俳句、短歌などの同人誌が50種類ほど書棚に納められていました。こんなにたくさんの刊行中の同人誌が岡山にあったなんて驚きでした。


「岡山の近代詩人7人展」 は、10月9日(月)まで吉備路文学館 にて開催されています。

OUKOKU-TEN painting exhibition 2006

「OUKOKU-TEN」 (アトリエ宮崎王国)を鑑賞しました。

伊藤玄樹  宮崎政史


宮崎さんら倉敷芸科大出身の5人のグループ展でした。


宮崎政史さんの作品は真っ白いキャンバスの前面と背面の2つの平面のみで表現されたシンプルな作品でした。これは視覚で物の形を認識するときの原初の段階ではないでしょうか。色彩や細部などが認識されるよりももっと前の段階、認識が働き始める原初の瞬間を捉えたような作品でした。それはとてもシンプルで透明でクリアな、そしてピュアな形象です。認識が完成される前、社会的な認識で汚される前の、純粋な心の働きです。まるで認識が種子の殻から芽を出したばかりの瞬間を捉えたような作品でした。


伊藤玄樹さんの作品は、心の奥にある情念のマトリックスの上に銀色のメタリックな線条で押さえるかのような印象でした。線条の内側にはこのような赤いマグマのような情念が秘められているのかもしれません。


廣川達也さんは爽やかな色彩の作品です。朝、目覚めたとき、世界は新鮮な色彩で輝いています。曇りのない目で世界を眺めたとき、こんな色彩で世界は僕らを歓迎してくれるのかもしれません。


紙本真理さんの作品は、セザンヌが印象派を飛び越えて、いきなり抽象画を描いたかのような作品でした。原色がとても綺麗でした。コリン・ウィルソン のいうアウトサイダーに見えるヴィジョンもこの絵のようなものかもしれないと想像しました。
児玉知己  紙本真理

児玉知己さんの作品は、草間彌生 の「無限の網」のような作品です。この作品の原体験は、元々は鬱蒼とした草々を見つめたときのヴィジョンではないでしょうか。地面一杯に生い茂る草にじぃっと見入ると、前後などの遠近感を失くします。さらに草と自分という主客を失くして、そこには草と一体となった自分がいるかもしれません。そうしているうちに、グラグラと眩暈を起こして、いつしか草に飲み込まれて心はサイケデリックな空間に陥ってしまいます。そこでは魂はそのサイケデリック空間でネイキッドな状態に晒されます。そこではもっとも敏感な部分が剥き出しになったように空間の息づかいを魂にダイレクトに感じます。日常世界よりも、もっともっと深いリアリティがそこにはあります。この作品には伊藤若冲 の鶏画のような生々しい艶やゴッホ の糸杉やひまわりに通じる生命力があります。この作品は日常空間を飲み込んでしまうほど強力な生い茂る破壊的生命力に溢れています。


(写真の撮影・掲載を許可下さった宮崎さん・伊藤さん、ありがとうございました。)


「OUKOKU-TEN」ギャラリーすろおが463 で7月17日(月)まで開催されています。

加藤健次さん

加藤さんは詩人です。
 
加藤さんの詩はジャズのような渋い大人の詩です。そして、現実を直視するリアリズムの眼差しを持った詩です。彼の前では世界はネイキッドな剥き出しの姿をさらけ出します。
作品には、「最後のジャングル」や「ツー・ベース・ヒット」があります。

詩集に「やなぎ腰のおとこ芸者 」や「紺屋記 」があります。

 

また、映像作品も制作されています。

 

加藤さんは、詩の朗読会「大朗読」 に出演されています。

 

加藤 健次

紺屋記

東井浩太郎さん

東井さんは詩人です。


東井さんの詩は、一見コミカルで私たちを滑稽な感覚に誘います。しかし、次第に滑稽な笑いの背後にある詩的空間を浮上させます。最後には、私たちの心の中にソリッドな沈黙が現出します。

彼は日常空間を破壊する確信犯です。


作品には、「ピーター」や「底抜け脱線電話」があります。


東井さんは、詩の朗読会「大朗読」 に出演されています。


みごなごみ先生

みごなごみ先生は岡山を代表する詩人のひとりです。


詩集に「彼岸バス 」があります。


また、第20回松崎義行賞を受賞されています。


英語圏の近現代詩研究家として活躍されています。

特にウィリアム・ブレイクの研究では、その独創性を高く評価されています。


みご なごみ
彼岸バス

詳しくは下記のホームサイトをご覧下さい。


みごなごみ先生ホームサイト「35753357533575335753」