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オランダの光

ピーター=リム・デ・クローン監督「オランダの光」 (in PEPPERLAND)を鑑賞しました。

能勢伊勢雄さんが月1回催されている上映会”VIDEO HACKING”の第176回でした。今回は光シリーズの第一弾とのことでした。

 

オランダの光には独特の自然光があり、レンブラントフェルメール など多くの画家に影響を与えてきたそうです。ヨゼフ・ボイス はエイセル湖の反射光にその原因を見つけます。この映画では絵画や風景を交えながら、アーティストや学者がオランダの光について語ってゆきます・・・。

 

この作品が指摘するように、オランダの低い地平線と湖面と雲が独特の自然光を生み出す原因だというのが実験や繰り返し映し出される風景映像でよく分りました。

 

それにしても、17世紀オランダ絵画が新鮮でリアルな輝きを放っていると私たちが感じるのは何故でしょうか。それはレンズの焦点を合わせるように、眼も瞳孔を調整してフォーカスしているところに起因しているように思います。フォーカスするとき、希に光をダイナミックに散瞳的に捉えるため、あのように透明でリアルな光の絵画が生まれてきたのではないでしょうか。

 

瞬間、意識の連続性が途絶えて判断停止(エポケー)となり、次の瞬間、散瞳的に生起してくるリアルな光を捉える。そんなプロセスがこれらの絵には無意識にあるような気がします。連続性が途絶えるとき、音は消えて完全な沈黙が訪れるように思います。そのため、これらの絵には音楽や物語が無いといわれたりするのだと思います。そして、特別開かれた目が光をよりリアルに捉えるのではないでしょうか。モンドリアン の絵などもまさに止観後に生起してくる瞬間の光を捉えたのではないでしょうか。

 

また、ジェームス・タレル の「肉眼のための天文台」もおもしろかったです。まるで自然の天空そのものをイスラムのドームに見立てたように感じました。岩のドームでのムハンマド「夜の旅」 が想起されました。本当に青天が霹靂したり、至聖溢出したりするように感じられます。

 

そして、タレルがセスナに乗って、「光を追いかけて光と一体になるんだ」といった光の探求から、光の形而上学の師スフラワルディーを想起しました。彼によると、自我を完全に消滅したとき、ぼんやりした真っ白な茫然自失状態ではなく、はっきりした全く別の意識が心の中に煌々と輝いてくるそうです。それはこれ以上にないリアルな存在で、光の中の光として体験するそうです。その瞬間、”我は彼”となるようです。修道僧バスターミーの次のような言葉が思い出されます。

 

      蛇がその皮を脱ぎ捨てるように、私は自分自身の殻を脱ぎ捨てた。

      そして、私は自分自身を眺めて見た。

      どうだろう、驚いたことに、私はまさに彼だった。

                                (サッラージ「閃光」より)

 

さて、また、ヤン・アンドリーッセの淡い水色は空を連想しました。船上のアトリエからあるがままに光を捉えようとする彼の姿勢はジャコメッティ を思い出させます。また、もっと強烈な青であるイブ・クライン の青を思い出したりもしました。

  

また、鑑賞後の能勢氏の解説がとても興味深かったです。眼球が胎生的に脳が突出して出来るというお話。エイセル湖が地球の眼であり鏡なんだというお話、トルマリンのお話などなど。能勢氏のお話からはとても大切な何かを伝えようとする愛が感じられました。

木許太三郎展

「木許太三郎展」 (slogadh463)を鑑賞しました。

 

空塊というテーマで制作されたダイナミックな抽象画の作品群でした。

 

どこかマレーヴィッチ の正方形が想起されました。ただ、マレーヴィッチの正方形は数学的で宇宙的です。

 

一方、木許氏の作品は空塊というテーマのように空という空間を表すキュービック体で構成されているようです。それも激しいタッチで塗り込められており、書のような筆使いまで感じられるものもあります。マレーヴィッチと比べると、これは座標軸を持ったデカルト的な思考空間ではなく、喜怒哀楽など情動を伴ってカオティックに蠢く、よりリアルな意識空間なのかもしれません。そうした中に現れた空塊は、東洋的無なのかもしれません。

 

(ラリオーノフの光線主義 にある自然の荒々しさに近いような気もします。ただ、彼らも彼らを育んだ自然の大地があって、完全には抽象や宇宙に突き抜け切れなかったような気がします。)

 

多くの日本の前衛芸術家は、科学や数学ではなく、プリミティブな感性で自然素材の中に無(ゼロ)を感じ取っているように思います。何か自然の大地が人間に与える霊感の所為のような気がします。そのためかロシアの国民的詩人プーシキン の詩を思い出したりします。

 

     しずかな土地よ おまえにあいさつを送る。

     やすらい はたらき 霊感のかくれ家よ!

     ここで わたしの日々の見えぬ流れが

     幸福と忘却のなかにすぎゆく。

     わたしはおまえの友 ―罪深き

     まどわしの館 はなやかなうたげのつどい

     たわむれや迷いをすてて しずけき野山

     のどやかな槲(かしわ)のざわめき 思索の友なる

     気ままな自由をたずね求めてここへ来た。

 

     わたしはおまえの友 ―わたしはこの地を愛でる。

     さわやかな風がそよ吹き 花々の

     咲き匂う このみどりの園を

     かぐわしい乾草の山がちらばり

     やぶかげにここかしこ清らかな

     小川のさざめく ここの草地を。

 

(金子幸彦訳「プーシキン詩集」 「村」より抜粋)

 

この詩からは大地自然への愛が伝わってきます。ラスコーリニコフアリョーシャ が大地に接吻する気持ちが分るような気がします。また、日本では、山川草木悉皆成仏につながっているような気もします。

 

さて、現代の若い作家は、これらをミニマリズム なデザインとして、より洗練された、より繊細な形象で表現しようとしているように思います。しかし、空塊には、そういった洗練をむしろ拒むような力強い素材の、隠れたマテリアリズムを感じました。

 

(また、この夜は能勢伊勢雄さんの岡山遊会 第312回に参加しました。楽しい充実した一夜でした。)

第11回大朗読

「第11回大朗読」 を鑑賞しました。

DogManSoup vol.1 DogManSoup vol.2 DogManSoup vol.3

 

大朗読が凄いことになっています!

もしかしたら、新しい時代の幕開けに立ち会ってしまったのかもしれません?!


以下、感想です。

 

・東井さんの朗読詩「カレーはタマネギだ。」には、改めて言葉の力を思い知らされました。言葉が直に背負っている意味の力で心に響いてくるのではありません。意味をはぎ取られた実体のないはずの言葉が、こんなにも私たちの言語空間をかきまぜて心に多様な波動を引き起こすとは思いもしませんでした!その効果はカレーの香りがカレーの味よりも鮮烈さを与えるのに似ているかもしれません!これは言語空間が崩壊する寸前に見せる不思議な輝きです。まさに言葉の魔術師です。

 

・岩本さんには驚かされっぱなしです!乱歩 に触発された詩「厠」を尺八付きで朗読されました。欲動に突き動かされる激しいダイナミズムが、詩の中でまるで獣のようにのたうっています。詩の展開は、はじめは笑いから聴衆を引き寄せ、次第に妖しくおぞましい世界へと聴衆を誘い込みます。そして、最後には西洋女性の吹く尺八が虚無僧の如く何かの終りを告げているように聞こえました。まさに汗や血をふり絞って身体が生命を尽くしてエロスを極限まで押し進めたとき、その行きつく果てにタナトス がたち現れたかのようです。それにしても聴衆の心をこれほどまで自在にコントロールすることに恐ろしささへ感じました。ただ、それにしても、バロウズ 級に過激でした・・・。

 
・加藤さんは映像詩「大黙読」でした。撮影場所はフランスで、どこかノスタルジックな風景でした。次の言葉が印象的でした。

 

   もう、なぜ生きるのか、なのではない。 どのように終わらせるか、だ。

 

これは若者には真似できない、避けられない死を覚悟した年長者の深い言葉です。大朗読の詩人たちに通底する深い言葉です。これは終りの始まりを意味しています。生命の衰えを感じたとき、人生の終末を向かえたとき、人生の道の行く先に死を見つけたとき、詩人の魂はどこに向かってゆくのでしょうか。最後のシーンでバタイユ の墓標の向こうに天使がたたずんでいるのが、とても印象的でした。

 

グローバル化した今の世界は何かを得た代償に何かを失いつつあるように感じます。その何かは、はっきりとは分りません。いえ、何かがはっきりしたかと思った瞬間、別なものにすりかわって、システマティックに元の喪失に戻ってしまうように感じます。でも、何とどう戦えばよいのか、いえ、戦う相手が何なのかすら分らないのです。そうしているうちに、人間そのものが変わってしまうように感じます・・・。上の世代はそれを直感的に分っていながら、上の世代は上の世代で老いとの闘いが待っています。どうすることもできない、そんな終末をこの映像詩から妄想してしまいました。

 

・秋山氏のオカルト詩は、難解な現代詩とのことでした。なぜか僕は失われた精神領域を表現した古代詩として誤読してしまいました。失われた領域とは神憑り(憑依)という精神領域です。かつてそれは人間にとって特殊ですが確固として存在する精神領域のようでした。現代日本では完全に失われたようですが、西洋には啓示 として残っているかもしれません。現代人である僕などは逆に西洋の啓示から想像してしまいます。なので、イスラム哲学者・イブン・アラビーの存在一性論に因んだ次のような詩を想起してしまいました。

 

   ああ、なんという不思議なものか、われと汝のこの結びつき。

   汝の汝は、われのわれをわれから消し去って

   あまりにも汝に近く引き寄せられたわれ故に

   汝のわれか、われのわれかと戸惑うばかり。

                           (ハッラージの詩より)

 

   われらのあいだから汝とわれは消え去って

   われはわれでなく、汝、汝でなく、さりとて

   汝、すなわちわれでもない

   われはわれでありながらしかも汝

   汝は汝でありながらしかもわれ

              (ルーミー「シャムス・タブリーズ詩集」より)

 

不思議な主客合一の体験のようです。どこか西田幾多郎純粋経験 を思い出します。

 

さて、他にも、郡さん、ユキオさん、ホムラさんや常連、詩ボク出場者など多数の方々が朗読されました。皆さんそれぞれが個性的で、全体的にレベルの高さを感じました。

 

・郡さんはいつになくカッコ良く感じました。チャンピオンになったためでしょうか、風格を感じました。

 

・ユキオさんは俳句でした。なぜかケロイドという文言が気になりました。

 

・ホムラさんはいつになく真剣な感じがしました。何か変化の予感がします。

 

とにもかくにも、今まで大朗読は回を重ねるごとにパワーアップしてきましたが、今回は一段とレベルをジャンプアップした、内容の充実を感じました。この充実ぶりは、もしかすると歴史に大きな足跡を残す大朗読時代の幕開けになるやもしれません。まるで大航海時代に似た大朗読時代・・・。新大陸を発見するのか、あるいは、ノアの箱舟の如く旧世代の英知の種子を残すのか、あるいは、そのまま二度と還らぬ新世界へと突き進んで行くのか。大朗読の航海は始まったばかりです。

 

※大朗読発行のビジュアル系ポエトリーマガジン「DOG MAN SOUP Vol.3」が丁度刷り上ったばかりで、できたてホヤホヤを入手できました。ムチャクチャ、かっこいいです!また、ユキオさんも執筆している文学系ギャルサークル・ブラック乙女部発行の「BoB Vol.1」も入手できました。恐るべき乙女たちです!

第6回詩のボクシング岡山大会本大会

「第6回詩のボクシング岡山大会本大会」 を鑑賞しました。

詩のボクシング6岡山大会 詩のボクシング6全国大会


この第6回以前の全大会を見てきたわけではないので正確には分りませんが、

これほど充実した「詩のボクシング岡山大会」は初めてではないでしょうか?

 

予選を突破して選ばれた16名はそれぞれに自分の持ち味を発揮されて、

会場の観客を飽きさせないどころか興奮の渦に巻き込みました。

その証拠に審査員の判定にこれほど敏感に観客が反応した大会は今まで無かったと思います。

(詩を勝ち負けで判定するなんて無茶な役目を負わされた審査員の方々は本当にお疲れ様だと思います。)

 
そして、トーナメント方式で対戦され、7人の審査員が判定した結果、郡宏暢さんが優勝されました!

郡さん、おめでとうございます!この希にみる激戦の第6回大会での優勝は本当に凄いことだと思います!

 

今回は印象に残ったことがとても多い大会でした。

 

冒頭の竹入光子さんによる永瀬清子の詩の朗読は、清々しさの中にも、きっぱりとした力強さがあり、

これからはじまる朗読空間を見事に磨き上げて準備を整えられました。

 

また、さわら小町さんの艶やかな着物姿が、ともすれば殺伐となりそうなボクシングのリングを、

闘牛場のカルメンのような効果を発揮して、より高い美の空間に演出されていました。

 

へい太さんの司会進行には、暖かいオーラを感じました(笑)。

だって、ちょっと間違えても観客のハピネスは逆に増すばかりでしたからね。

 

そして、個性的な朗読の数々でした。

対戦なんて言わずに、もっとじっくり、たくさん聞いていたい詩の数々でした。

(でも、審査員の方が言われたように、頭は心地良くフラフラになっちゃいましたね。)

 

以下、印象に残った朗読の感想です。

 

・澤さんには、憑きモノの降臨、語り部の末裔を感じました!このソフィスティケートされた21世紀にこのような語り部空間を現出させられる野性を見られて感動しました!楠さんが評したように復活戦に再選してほしかったです。

 

・船津さんの準決勝の作品、最後まで聞きたかったです。タイムマシンとして弾丸が出てきたとき、結末がとても気になりました。近代精神の行きつく果てに現れる狂気の闇が見られるのでは?とドキドキしました。時間切れがとても残念でした・・・。

 

・空太郎さんの芸風は、とても完成度が高く、あとは詩をどこまで深めてゆけるかと感じました。

「その通り」のためだけに用意された大掛かりな無駄なセットとバナナのアドリブには、凄いと唸らされました!

 

今大会は誰が優勝してもおかしくないほどのまれに見る大接戦・大激戦でした!

お笑いではない、詩の朗読というパフォーマンスアートが、世界を席巻する日もそう遠くないのかもしれないと強く感じさせられた大会でした! 全国大会がとても楽しみですね!

詩のボクシング第6回岡山大会

「詩のボクシング第6回岡山大会」 が開催されます!


今年も詩の朗読の熱い闘いが始まります!言葉とパフォーマンスが観客の度肝を抜きます!

”異文学コミュニケーション”と銘打たれた今大会では、一体どんなパフォーマンスが見られるのか?!

とっても楽しみですね!


スケジュールは次の通りです。


「第6回詩のボクシング」岡山大会予選会 8月26日(土)13:00~ 西川アイプラザ4F会議室 入場無料

 ↓ 

「第6回詩のボクシング」岡山大会本大会  9月17日(日)13:00~ 西川アイプラザ5Fホール 当日1,200円

 ↓

「第6回詩のボクシング」全国大会  10月7日(土)13:00~ イイノホール 当日3,500円


詩のボクシング6岡山大会 詩のボクシング6全国大会


また、2006年「詩のボクシング」各地大会開催スケジュールはこちら です。

斉藤恵子さん

斉藤恵子さんは岡山在住の詩人です。

 

詩集には、「樹間 」、「夕区 」があります。

 

処女詩集「樹間 」では、第55回H氏賞 で次点に、第10回中原中也賞高見順賞 で最終選考にノミネートされたりしました。たいへん注目されている詩人です。

 

また、第2詩集「夕区 」が2006年8月に刊行されました。

 

また、大朗読 に出演されたりしています。

樹間

斎藤 恵子

樹間

斎藤 恵子
夕区

可視幻想

「可視幻想 山村浩二 アニメーション+原画展」広島現代美術館 )を鑑賞しました。

可視幻想

 

「頭山」で有名な山村浩二 さんのアニメーション展でした。本当に多様な技法の様々な作品に驚かされました。一個人でこれだけたくさんの技法に実験的に挑戦、取り組んでいるアニメ作家は珍しいのではないでしょうか。次回作のカフカ「田舎医者」が楽しみですね!

 

さらに、この日はワークショップ「アニメーションの未来へ、山村浩二の注目する若手作家」と題して、トークと上映会が開催されました。若手作家として、大山慶 さん、和田淳さん、中田彩郁さんが登場されました。

 

上映された作品は、大山さんの「ゆきどけ」「診察室」、和田さんの「やさしい笛、鳥、石」「鼻の日」、中田さんの「舌打ち鳥が鳴いた日」「おばあちゃんの作業部屋」「ICAFアイキャッチ」、山村さんの「Fig」でした。

 

全体的な感想としては、「無限(ループ)」、「切り替り(ジャンプ)」、「変化(メタモルフォーゼ)」というキーワードが頭に浮かびました。

 

「鼻の日」では、場面の切り替りにとっても驚嘆しました!まるで夢のような性質です!この場面の切り替りはアニメでなければ表現できないと思います!また、作品全部が感覚で作られているので、他にも一杯感じるところがあってとてもおもしろかったです!

 

「ゆきどけ」では、アニメの中にそこだけリアルな目や歯を用いることで、現実以上にリアルに感じられました!また、ラストでシミ(?)が広がるところはサプライズでした!

 
また、トークでノルシュテイン監督 の言葉の引用が興味深かったです。

”ちゃんと人生を楽しんでないのでは?!”とのこと。

ノルシュテイン ハリネズミ

 

確かに多くの若いクリエイターに、活力というか、生き生きした歓びというか、いたずらっぽいユーモラスというか、それらの源となる何かが欠けている気がします。それは知性的にはなったけれど、野性を失ってしまったからかもしれないとも思いました。

 

このトークでも身体性が話題に取り上げられましたが、奇しくも富野由悠季 もごく最近の高橋良輔 との対談の中で身体性の重要性について熱弁を振るっておられました。

 

山村浩二 さんの取り組みは、商業アニメとはまた違った別の世界を私たちに見せてくれる可能性を秘めていると思います。コンピュータの進歩によって個人での創作が可能となった今、新大陸の道が開かれたように思います。今、多くの分野で新しいモノが出尽くした感が強くなっている中、まだまだ新しい可能性を秘めていると感じさせてくれるのは、これらアニメの世界だけではないでしょうか。今回のトークメンバーを含めて新たな創作グループを立ち上げられるとのこと、今後の更なる活躍に期待大です!

 

「第11回広島国際アニメーションフェスティバル」 も少しだけ覗くことができました。(もっと時間があれば・・・。)

外国人が多い国際的なイベントはやっぱり興奮しますね!

第6回詩のボクシング岡山大会予選

「第6回詩のボクシング岡山大会予選」を鑑賞しました。

詩のボクシング6岡山大会 詩のボクシング6全国大会

 

総勢28名が予選突破を目指して6組に分かれて、3分間の詩の朗読に挑みました。

 

楠かつのり 氏と沖長ルミ子氏が審査した結果、岡山大会本大会出場者16名が選ばれました。

 

様々なスタイルの朗読を鑑賞できて、充実した楽しい時間を過ごせました。

 

他県を知らないので正しくはわかりませんが、

岡山県の「詩のボクシング」は、本当に層が厚いなあと思いました。

(高校野球漫画で地方大会が充実しているのと似ています。)

 

 

それから、朗読以外に楽しみなのは、朗読後の講評で楠かつのり氏と朗読者の対話です。

 

楠さんは、必ず揺さぶりを朗読者に仕掛けてきます。

 

虚を突くようなことを聞いたり、ワザと怒らせるようなことを言ったりして相手を挑発します。

(もちろん、それは悪意からではありません。むしろ、朗読者の魅力を引き出すためだと思います。)

 

そうすることで、朗読者の朗読モードではない顔を引き出そうとします。

 

(これは禅の公案に少し似ています。ただし、公案 は弟子をダブルバインド にまで持っていったりしますが。)

達磨大師 ベイトソン

 

それは、朗読者のリアルを引き出そうとしているのだと思います。

 

バロウズ のいうところのネイキッドな本当の姿、むき出しのリアル、生々しいリアルなどです。

ただし、グロテスクな露悪趣味を追求しているわけではありません。

それは、生き生きとしたリアル、生命の輝きを求めているのだと思います。

バロウズ2  

 

(もちろん、朗読そのものが審査の対象であることには違いないとは思いますが。)

 

というわけで、「詩のボクシング」のもう一つの楽しみ、

楠かつのり氏と朗読者とのやり取りが、予選大会では見ることができました!

BODY

BODY

岩本文秀

小学校の南 住宅街に在る境内

見上げると くらくら 満開の桜

ざわざわ ざわざわ 風の路

ひらひら ひらひら 桜の花

揃えられた黒革靴 倒された脚立

ゆらゆら ゆらゆら 黒背広

ざわざわ ひらひら ゆらゆら


オフィス街に在る公園の砂場

赤黒い砂の上に 仰向けに横たわる全裸の女

見開いた眼 歪んだ口元 切り裂かれた腹部

へその緒で繋がる胎児の瞼の上で 小刻みに動く蝿

朱に染まる車の谷間は 写らない


月夜の2号線 ん 事故? 

駐車灯を点け左へ寄せ 懐中電灯手に現場へ 

歩く度に揺れるライトが アスファルトに光る何かを照らす

千切れた左手首 自己主張する赤マニュキア

ライトで浮かぶ横転した356スピードスター

砕けたフロントガラス 運転席には左手首の無い赤いドレスの女・・・


買い物客でごった返す 年末日曜昼下がり

デパートタクシー乗り場のベンチに 仰向けに横たわるホームレス男 動いてない胸と腹

通報したのか2名の警官が現れる 1名が話し掛け 他の1名が無線連絡

5分後 ノーサイレンで赤色回転灯を点けた救急車が到着

野次馬が見守る中 2名の救急隊員が後部ドアから担架を引き出し 男を乗せ収容

警官と業務連絡後 ノーサイレンで搬送

街は年末日曜午後の顔に・・・


生かされている 意識とは関係なく 決められたDNA

分裂する細胞 脈打つ心臓 乾く喉 滲む血・涙

かく汗 湧く唾液・欲望 減る腹 溜まる排泄物・精液 勃起する陰茎

伸びる体毛・爪 襲う睡魔 罹る病 

そして 朽ちる 肉体

岩本文秀さん

岩本さんは詩人です。


岩本さんの詩は恐ろしくエネルギッシュな詩です。

ズシリと腹に響く詩です。時にコミカルに、時に度肝を抜くド迫力で私たちの心に揺さぶりをかけます。和太鼓のビートに魂が撃ち抜かれるような激しい衝撃を私たちに与えます。はじめて岩本さんの詩の朗読を聞く方は腰を抜かしそうになりますので注意してください。聞いた後は自分の中に不思議な活力が生まれているのを感じます。


作品には、「蕃山町ブルース」や「昭和」があります。


また、大朗読詩誌「DOG MAN SOUP」の写真を担当されています。


このブログでは、「BODY」 を掲載しています。


岩本さんは、詩の朗読会「大朗読」 に出演されています。