尖閣諸島を東京が買うことどう思う?ブログネタ:尖閣諸島を東京が買うことどう思う? 参加中




特に反対する気も無いのですが全面的に無条件で賛意を表する、と言う訳でもありません。
ですが、この問題は、ともすれば「お金が全てを解決し得る」と言う感を一部か、または半数を超える多くの人々に懐かせてしまう可能性も少なからず孕んでいるのでは、と言った事を考えてしまいます。
その様な点を危惧しない訳でもないのですが、これで多少なりとも今後の尖閣諸島に於ける不安や懸念が払拭されるのであれば取り敢えずは結構な話です。
しかしながら、この話題が、わりと最近になってから改めて再燃し始めた事が気になります。
何故、石原都知事は、ここ最近になって尖閣諸島の購入を、また新たに主張し出したのでしょうか
無論、中国の違法かつ無法で傍若無人な行為や振る舞い等が背景として存在している事は考慮されます。
しかしながら、それだけが決定的な理由や要因である、と考えてしまっていいのでしょうか
こう言った条件下に在る島や土地を一刻も早く、かつまた速やかに安全な状況下へと置くべき旨を先ず第一義的に考えた末の結論、及び決断と実行だったであろう事が少なくとも政治的な建て前の上で為される大前提なのは説明を待つまでも無い、と思います。
ですが、この尖閣諸島に於ける問題は、ここ数ヵ月で生じた様な新しい事件や新たな出来事ではありません。
つまり、もし本気で日本の国益や尖閣諸島の行く末と言う将来的な未来像に想いを馳せた上で為された発案だったのであれば昨年の春に行われた東京都知事選挙に於いて、その意向を広く大々的に宣言して然るべきだった筈なのです。
何故ならば石原氏は以前から尖閣諸島の購入に意欲を示して来られて居た訳ですから、それを東京都として購入するべき予定が有る旨を都民に対して事前に知らせておくのは当然の義務でありましょう。
それが為されなかったのは、その意思や計画が当時は全く皆無だった、または限り無く零に等しい程の微々たる思いでしかなかったからか、そうでなければ購入の姿勢を示すのに最も効果的な時期を検討していた最中に、あの大震災と原発の問題が発生して完全に機会を逸してしまったからなのかも知れません。
いずれにせよ、これは今後の政治的な動向を視野に入れた上での事なのではないでしょうか
北朝鮮、ミサイル発射についてどう思う?ブログネタ:北朝鮮、ミサイル発射についてどう思う? 参加中




「世界の平和と秩序を著しく乱して人々に要らざる不安と疑心を懐かせる全く以て時代錯誤な愚挙、暴挙である」と強く断じます。
そもそも、あれは軍事力を以て新しい国家の体制下に於ける威信と存在感を内外に対して誇示し行く事が、その主たる目的だったのではありましょう。
ですが、ああ言った軍備や武力を背景に国の政治的な意思や意見を表明する在り方は二十世紀か、それ以前の時代に遡る古い過去の遺物と言うべき行為なのではないでしょうか
兵力に注ぎ込む予算が有るのであれば、その経済的な余力を国家と国民に還元して国を繁栄させ行く為の原資とする事で経済と言う次元、側面での国力を世界に示して行く、と言う考え方を持つ事こそ賢い選択肢な筈です。
一つの国家であれ、または一人の人間であれ、その主体(者)に畏敬の念や羨望の感を抱かせ、その主義や主張に従わせて同意や賛同を得たいのであれば、その為に必要な条件は武威や腕力と言った剛的な要素ではなく、それとは対極的な知略や頭脳を駆使した柔的な方途に頼るべきである、と考えます。
「百戦百勝は善の善なるものにあらず。戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり。」
上記の言葉は兵法書「孫子」に於いて「謀攻編」の中で展開されている、この書を通じて「殆んど全編に流れる」と言っても過言ではない基本的な思想の一つです。
要するに「宣戦布告や武力公使は最終的な致し方の無い場合に於ける手段であって出来る限り回避するべき行動である」と言っている事になるでしょう。
つまり引用した箇所からは「兵を云々する方法」である戦争や競争の指南書、専門書こそ身勝手で積極的な争い事を避けている節が見受けられる筈なのです。
治乱興亡の歴史が我々に教訓として語りかけ、そして常に教え諭している事とは一体、何なのでありましょうか
それは戦や争い等と言った対立の構図が招き導き出している結論は、いつの世に在っても庶民や衆生と言う社会の担い手であり未来の主役たるべき人々を犠牲にして不幸な方向性へと追いやる結果に変わりはなく、その期待や希望を裏切る上に全く正反対な世の中にしている、と言う事になる筈です。
指導者たる者は自分を大事に思うのであれば先ず民衆を第一に考えなければなりません。
原発再稼働どう思う?ブログネタ:原発再稼働どう思う? 参加中




これは決定や実行の時期と、それ自体を慎重に検討し、そして真剣に、かつ幾度もの熟慮を何度も重ねた後に、その上で更に細心の注意を怠る事なくして真摯に誠実に取り組むべき非常に重大な問題でありましょう。
何しろ、これは原子力発電所を、その居住区域内に抱えておられる地域の皆さま方が隣り合わせに直面されている不安や恐怖を考えれば、ただ事では済まされない実に深刻な重大事なのです。
昨年の大震災で原発の(安全)神話が崩れ去った今、一定の土地や地域、及び一部の方々に対して、これ以上の労苦や心労を強いる事は耐え難い罪悪感を感じないでは居られません。
この問題は原子力発電所の脅威に悩み苦しんで来られた方々の犠牲と引き換えに、これまで通り我々の利便性を追求する生活の継続が為されて行く事を見つめ直し考え直すべき時に直面している、と捉える最後の契機なのではないでしょうか
無論、電気や電力は必要不可欠ですし原発に代わり得る何か他の方法や存在が有る訳でもないですし、また原子力発電を完全に廃止した後、生じる電力の不足分は公平かつ平等な計画停電で帳尻を合わせれば済む、などと短絡的で無責任な事を言う心算もありません。
十分かつ安定的な電気の供給が無ければ様々な部分に支障を来すであろう事は誰の目にも、そして火を見るよりも明らかです。
例えば一例として公共の場に目を向ければ高齢者や(社会的)弱者の生活や行動を様々な部分で電力が補助している現実も有る訳で、そう言った殆んど無視されがちな分野の事にまで、きちんと注意を注いで考えて行くと原発と言う電気の供給源が無くなる事など先ず以て考えられないのも、また事実であります。
しかしながら福祉や公益を追求し拡充し行く事に平行して、その一方では利益や快適性を提供する為の原動力が産出される影に核や原子力の脅威を感じている人々が居る事にも意識を向ける必要があるのです。
つまり原子力発電所の及ぼす弊害に直接的な縁が無い我々(原発の区域外に居住する人々)は一部の犠牲者を土台とした社会的な構造に乗り、それに甘えた形で生活している、と表現する事が出来るかも知れません。
誰かの不幸や不利益を基に、それ以外の者が幸福や付加価値を築く考え方は、もう終わりにするべき時なのではないでしょうか