夏休みの思い出を書こう【投稿でギフト券1万円当たる】ブログネタ:夏休みの思い出を書こう【投稿でギフト券1万円当たる】 参加中





『 夏休み』と言うと義務教育の期間と高等学校に居た時分、及び大学時代と言う様な頃を仰っているのでありましょうか?
その前提に立って申しあげるのであれば、やはり『夏休み』の思い出は初期(夏期休暇を3つに分けた意味での)や前半(より具体的に論ずるならば7月中)と位置づけ得る時期を課題や宿題への取り組みに費やした、と言う難行苦行の記憶が先ず思い起こされます。
そして残った日々と時間を(女)遊びと有意義な使い方で過ごす、と言う回答に行き着くのですが、ここで言い添えておくべき事は『女遊び』と申しましたが、この私は美男子でも『イケメン』でもない、と言う事です。
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「好き」ではないです。
寧ろ「嫌い」と言うべきでしょう。
そもそも顔や姿と言った見た目に対して先ず嫌気を感じるのですが、それだけが「嫌い」であるとか「好きではない」と言う理由ではありません。
これから述べる内容は個人的かつ独善的な意見や考え方である旨を先ず申し上げておくべきでありましょう。
これは、もしかしたら単なる勘違いか、または思い過ごし等に属する事なのかも知れませんが総理大臣を彼に変えてから天候不順や異常気象の発生する頻度が少しばかり多くなって来た気が致します。
もし、これが気のせい等ではなく、それなりに確かな事実であると言う結論や断定になるならば、ただ事では済まされません。
無論この自説や主張を立証する術など皆無ですし、また証明し得たにしても、どうにも出来ない事です。
しかしながら、そうだとしても言わないでは居られませんし、また書かずに居る事も出来ません。
僕が座右の銘として来た東洋、特に中国の思想(主に兵法書)には天下と政治家との関係性に言及した言葉や考え方が幾つも存在しております。
それ等の一つである『六韜』(『文師』より)には「天下は一人の天下に非ず、すなわち天下の天下なり。天下の利を同じくする者は、則ち天下を得、天下の利を擅にする者は、則ち天下を失う。天に時あり、地に財あり。」と言う一文が有るのですが、こう言った理想的な論理や定義は今の政府与党である民主党と内閣総理大臣に、よく理解して頂き実行へと移して貰いたい倫理観や道徳律である、と考える次第です。
勿論この中(『六韜』の『文師』)で云々している天下は民衆を指しておりますから天下と天や空を混同してはなりませんし、また同一視など絶対に致しません。
ですが、もし人智を遥かに超越した究極的な概念や存在(例えば経済学者アダム・スミスの表現である「神の見えざる手」等)が有る、または居るとするならば、ここで提起している理論を成立させて後押しする事も可能でしょう。
もし「天下に該当し得る国民は落胆や絶望を感じて嫌悪感と拒否反応に支配されつつ政治を拒絶している、その感情を自然界(人間を超越した存在や概念の一例)は代弁して反映させる意味で現象に変えている」のだとしたら、これ以上は異常な事態を続発させない為に首相も政権も速やかに交代をするべきなのです。
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一言で以て端的に、そして正直な意見を申し上げるならば「納得は出来ない!」とか「釈然としない!!」と言う表現に尽きてしまいます。
または「灰色や玉虫色の回答、及び判決だ、と思う」と言うべきでありましょうか
或いは「検察官役(指定弁護士)の追撃や詰め等が緩く浅い上に見通しも甘かったが為に行き着いてしまった安易な決着点だったのではないか」と言うべきかも知れません。
若しくは、そもそも証拠や確証が十分な段階にはなかったかも知れなかったのに「起訴に踏み切り審理へ持ち込むには、あまりにも時期尚早だったのではないか」と言っても過言ではない、とも言えるでしょうか
いずれにせよ、これで改めて検察の権威と存在は、これまで以上に更なる加速度を増して失墜していく事になるのではないか、とも案ぜられてならない点が不安視されてなりません。
世間は、そして民意は分立する三権の内、立法と行政に対して、ただでさえ辟易しており呆れ返っている現状に在る訳ですから、せめて司法の場にだけは全幅の信頼や信用と、その存在、及び存在感に期待や希望を持ち続けさせて欲しい、と切に願って止まないで居るのではないでしょうか
しかしながら、そうであるかも知れないにもかかわらず、この度の判決は、そうした国民が抱いているであろう当然の祈りや願いを無惨にも真っ向から打ち砕いてしまった結果に終わったのではないか、と思えてなりません。
本来ならば、とやかく言われて然るべきなのは不正や汚職を働く政治家の方ですが、その監視や是正を前提に牽制するべき役割(それが成立した本来の理由や動機ではないが)を担う司法と、その司法が下すべき結論に自らが正しいと信じて止まない確かな根拠や事実を判断の材料として提供するべき側の人達に対しても、それ相応な批難の矛先が向けられ、その失意や嫌悪と言う名に等しい感情で彩られた批判の矢を浴びせられるのも致し方が無い部分はあろう、と思う次第です。
「政界の人や政治に関わる者は誰人たりとも信じる事など出来ない」と言っても決して言い過ぎではない様な現代に在って、その不信感を僅かでも払拭してくれる事を期待して頼るべき対象、頼むべき相手は法治国家に於ける厳格な法の執行者とも言い得る検察であるべき事が先ずは望ましいのではないでしょうか