続・功夫電影専科 -82ページ目

続・功夫電影専科

香港映画を始めとした古今東西のアクション映画の感想などを書き連ねています。


忍者潛龍/忍者潜龍
英題:Ninjas and Dragons
製作:1984年

▼この映画は『龍の忍者』に続いて、JACが功夫映画とコラボした貴重な作品である。だが、本作の撮影中に高木淳也が負傷し、役者業から離脱するという大きなアクシデントが発生してしまう。それが理由なのかどうかは不明だが、本作は日本での公開が見送られるという悲劇に見舞われ、長らく幻の作品と呼ばれてきた…らしい(そのへんの事情は私もあんまり詳しくありません・汗)。
そんな訳でお蔵入りとなってしまった本作だが、作品そのものに関してはとてもよく出来ている。前作『龍の忍者』では、ジャッキー映画にあやかって呉思遠(ン・シーエン)と合作していたが、本作では『少林寺』よろしく大陸ロケを敢行。高度な功夫アクションとも相まって、鮮烈な印象を残している。出演者に大陸の俳優が多く、知っている顔がどこにもいないのが唯一の不満ではあるものの、逆にそれが高木の存在感をより一層高めているのだ。

■時は元朝時代(?)の中国…悪しき将軍によって翡翠の御印が奪われ、各地で侵略行為が行われていた。侵攻は梁荘に居を構える董力(ドン・リー)とその一族にも波及し、恋人の夏菁が将軍側に捕まってしまう。そんな中、親の敵である三原之助(般若の面を付けているため演者は不明)を追って日本から来た忍者・高木淳也は、将軍たちの計略によって殺人の濡れ衣を着せられ、将軍の下で幽閉されていた。董力とその仲間たちは、敵地に潜入して夏菁の奪還を目指すが、間違えて高木を救出してしまった。
『龍の忍者』のようにいがみあう事も無く、あっさりと打ち解けた董力と高木は、悪しき将軍への打倒を誓った。が、将軍は夏菁と引き換えに高木を渡せと要求し、抵抗した董力らは窮地に立たされる。過酷な拷問を受ける董力一行だったが、高木の機転と味方の援軍によって形勢は一気に逆転!夜間から始まった死闘は明け方まで続き、悪しき将軍を夏菁たちが倒し、残るは配下の太君と名乗る老婆だけとなった。
 太君はオカマと小人を手下に従えていて、トリッキーな闘い方で董力と高木を翻弄する。太君の正体が三原之助であることに気付いた2人は、荒れ果てた草原で最後の戦いを繰り広げるが…。

▲本作は『龍の忍者』と同じように、「忍者が親の仇を追って中国に渡り、中国人の主役とともに巨悪を倒す」という構図で作られている。ただし先述の通り、『龍の忍者』ではジャッキー作品的な要素を盛り込み、本作では『少林寺』的な雰囲気を加えることによって、各々の印象が被らないように工夫されている(これは『龍の忍者』にも参加し、本作ではプロデューサーとして名を連ねている染野行雄氏の意向によるものが大きいと思われる)。
ストーリーは特別深いものではないが、功夫アクションはかなり充実している。武術指導はJACの斉藤一之(ご存じ『女必殺拳』のスピンゲル!)だが、劇中のアクションは完全に香港映画風の立ち回りとなっており、JACらしい空手チックな動きはほとんど見られない。助理指導として大陸側の武師も関わっているらしいが、氏がどれくらいの割合で指導を行ったかが非常に気になるところである。
 本作での見どころを挙げるとすれば、やはり高木淳也の素晴らしいアクションに尽きるだろう。高所からのスタントなんかお手の物で、ラストバトルのVS三原之助では打点の高い回し蹴りを次々と決め、中国側の主人公を食ってしまう大活躍を見せている。この対戦は間違いなく高木のベストバウトと呼べるもので、全盛期の彼を堪能できる最後の作品に相応しいものとなっているのだ。
全体的には本作の方が上手にまとまっているが、ギャグやボリュームで言えば『龍の忍者』の方が上かも?もし本作での高木のアクシデントが無ければ、黒崎輝や塩谷庄吾が忍者として香港映画に出ていたかもしれず、そう考えるとますます惜しい気がする作品であります。…それにしても、こんな良い作品に出ていた人がどうして『ニッポン非合法地帯』みたいなのを撮っちゃったのかなぁ…(爆


「キョンシー・キッズ 精霊道士」
原題:疆屍怕怕/精靈寶寶
英題:The Close Encounter of Vampire
製作:1986年

●ここ最近、色々なブームに関係した作品を紹介しているが、今回も流行に乗って作られた作品を取り上げてみよう。本作はキョンシー映画で盛り上がっていた1980年代後半に、袁和平(ユエン・ウーピン)率いる袁家班が撮った作品である。
当時、袁和平らはオカルト功夫片を次々と製作していたが、あえてキョンシーという人気キャラクターを起用せず、独自のマスコットで勝負に出ていた。しかし、「ブームに便乗しただけの作品など作りたくない!」という彼らの気合こそ感じられるものの、袁家班のオリジナル・キャラクターたちは異様な物ばかりであった。特に『妖怪道士2』に登場するバナナ・モンスターというキャラは、スイカ状の体にアンテナが付いていて、男の胸を触るとヨダレを垂らして悦に浸る…という意味不明すぎるクリーチャーだった。どうやったらこんな滅茶苦茶なキャラを考えられるのか、袁家班に直接聞いてみたいほどである(爆
 そんな中、袁家班は『ドラゴン酔太極拳』で甄子丹(ドニー・イェン)と出会い、新たな道を模索していくのだが、その直後に製作した袁家班最後のオカルト功夫片こそが、この『精霊道士』なのだ。甄子丹と出会ったことで精神的な余裕ができた袁和平は、「たまには肩の力を抜いて普通のキョンシー映画でも撮ろうかな?」と思ったようで、本作ではこれまでのオカルト作品にあった功夫アクションがほとんど無くなり、あくまでノーマルな子供向けキョンシー作品として仕上がっている。
物語は、京劇劇団の子供たちがベビーキョンシーと交流するエピソードと、ドジな道士が七転八倒するエピソードの2つによって構築されており、子供向け作品として見るなら結構面白い。どちらのエピソードもほのぼのとしているし、ラストもしんみりと感動させてくれる。全体的な雰囲気こそ「普通のキョンシー映画」でしかないが、少なくともツギハギ映画の『幽霊道士』や、子供キョンシーが人殺しをする『リトル・キョンシー 幽霊王子』よりは数倍マシなはずだ。
 ただ、袁和平と袁家班が制作する作品なら、やっぱり功夫アクションの1つや2つは欲しかったなぁ…と思ってしまうのが功夫映画ファンの哀しい性(苦笑)。京劇劇団の座長に袁祥仁、ドジな道士に梁家仁と袁信義、イヤミな坊ちゃん役で袁日初が出演しているだけに、ちょっと惜しい気がします(ちなみに京劇劇団の子供たちをまとめていた女の子は、甄子丹の妹である甄子菁(クリス・イェン)その人)。
『ミラクル・ファイター』から続いてきた袁家班のオカルト功夫片。その最後を飾る上で本作は地味な印象を残すが、キョンシー映画のあるべき姿へ先祖返りしたとも見て取れるし、これはこれで興味深い作品なのではないだろうか。


「西遊記リローデッド」
原題:情癲大聖/情天大聖
英題:A Chinese Tall Story
製作:2005年

▼古来より、西遊記という物語は様々な方面で人気を博してきた。
日本でもマチャアキのTVドラマ版を筆頭に、新解釈された『最遊記』や、「なまか」と連呼していた変なの(爆)まで、実に多種多様だ。香港ではショウブラ産の旧作や、周星馳(チャウ・シンチー)主演の『チャイニーズ・オデッセイ』という作品も作られたが、今回はその『チャイニーズ・オデッセイ』の監督である劉鎮偉(ジェフウ・ラウ)が製作した、新たな西遊記を紹介しよう。
 本作は香港製のSFファンタジーアクションで、著名なスターがこぞって参加している超大作でもある。主演は謝霆鋒(ニコラス・ツェー)と蔡卓妍(シャーリーン・チョイ)の両名で、それぞれ三蔵法師とブサイクな妖怪(笑)を演じている。
邦題には西遊記の名前が冠してあるが、実際の主役は謝霆鋒&蔡卓妍の2人であり、陳柏霖(チェン・ポーリン)らが演じる孫悟空一行は序盤と終盤にしか登場しない。アクションシーンではCGを多用した場面が多く、香港映画らしい手作り感は感じられないようになっている。

■謝霆鋒たち三蔵一行は、とある街に立ち寄って盛大な歓迎を受けるのだが、妖怪軍団によって襲撃を受けてしまう。
形勢不利と悟った陳柏霖は、謝霆鋒に如意棒を持たせて逃がすことを決意。どうにか謝霆鋒だけは助かったが、今度はブサイクな妖怪の娘・蔡卓妍と行動を共にする羽目になった。謝霆鋒は陳柏霖たちを助けようと奔走するも、海の将軍・元華(ユン・ワー)が自害した責任を問われ、天上界のお偉いさんを撲殺してしまう。これが後に大きな波紋を呼ぶこととなるだが…。
 その後は色々あって、謝霆鋒が妖怪の仲間入りをしてしまったり、蔡卓妍といい仲になってきちゃったり、氷河期時代から時空を越えて人類の祖先が現れたり(※マジです)、蔡卓妍がその人類の祖先の仲間だった事が判明したりして、最後は蔡卓妍が妖怪軍団を壊滅させて万事めでたし…とはいかなかった。元華と天上界のお偉いさんが死亡した責任を取るため、蔡卓妍は全ての罪を1人で被ろうと天上界へ向かってしまったのだ。
これにブチ切れた謝霆鋒は、如意棒を片手に天上界で大暴れを繰り広げるも、衛兵に阻まれて大怪我を負ってしまう。それでも蔡卓妍のことを想い、彼女の元へと近付こうとする謝霆鋒であったが、そこへお釈迦様が姿を現した。
 お釈迦様は「あんたの思いも立派やけど罪は罪や。蔡卓妍は死罪やったけど、馬にして生かしたるから堪忍な。ほなお前らはスタート地点からやり直しや」と裁き、時間は謝霆鋒が旅立つ場面へと戻った。こうして謝霆鋒と蔡卓妍は、お互いがお互いと知らぬまま砂漠を歩んでいくのだった。

▲…という話だが、残念ながら私は楽しめませんでした。こういうラブストーリーは嫌いじゃないのだが、あまりにも飛びまくったストーリー展開だったので、途中から完全に置いてけぼり状態に。「フリーダムな展開は香港映画につきもの」とは言うものの、次から次へと訳の解らないキャラクターが登場するため、いまいち話に感情移入しづらかったです。
非暴力を唱える一方で何度もキレてしまう謝霆鋒、心情の変化が掴みにくい蔡卓妍など、登場人物の信念が一貫されていないのも問題のひとつ。特に謝霆鋒は、蔡卓妍と仲直りしたと思ったらすぐに彼女を見放したりと、やってることがメチャクチャだ。この2人の演技は良かったのだが、行動に移るとどうも釈然としないというか何というか…。
 さて功夫アクションについてだが、本作にはそういった要素は1つもない(!)。一応、謝霆鋒が暴れるシーンでそれらしい動作は見られるものの、先述のCGアクションが多すぎて完全に埋没しているのだ。
本作におけるCG描写はハリウッド作品に匹敵するほど派手なもので、これはこれで「香港映画もこういった一流のCGが作れるようになった」と感心できるが、一方で「香港映画もハリウッドのようなCG作品に傾倒してしまうのではないか」という不安も感じられる。このへんの問題はハリウッドも香港も同じだと解るが、私は動作設計を担当した元奎(ユン・ケイ)のアクションを期待していたため、随分とガッカリさせられました。
 ストーリーは支離滅裂で、生身のアクションもほとんど削られてしまったCGだらけのファンタジー映画。ちなみに、惠英紅(ベティ・ウェイ)が蔡卓妍の育ての母親として、劉家輝(リュウ・チャーフィ)が天上界の1番偉い人としてゲスト出演しているが、どちらもアクションを見せないのでご用心を。


少林醉棍
英題:Shaolin Drunk Fighter/Royal Monks
製作:1983年

▼率直に言うと、本作は韓国で作られた『少林寺』である。
当時は中国や台湾などで『少林寺』のフォロワーが排出されていたが、韓国でも同様の動きは起こっていた。ブームが起きるたびに便乗作品が作られるのは世の習いだが、『少林寺』の便乗作品は他とは違った趣を見せている。通常の便乗作品だと、主演俳優にそれらしい事をさせていれば成り立つが、『少林寺』フォロワーの場合は"壮大なロケーション"という、これまでの便乗作品には無かった要素が欠かせなくなってきたのだ。
 大陸で製作された作品の場合、ロケ地の確保は特に考慮すべき問題ではなかったのだが、台湾や韓国では大きな障害となった。香港で『少林寺』の便乗作品が作られなかったのも、このロケ地問題が尾を引いていたからに他ならない。数ある便乗作品の中において、功夫アクションとロケ地に気を遣わなければいけなかった『少林寺』フォロワーは、実に扱いの難しいジャンルだったと言えるだろう。
………って、似たような文章をつい最近書いたような記憶が…(爆

■そんな扱いにくさとは打って変わって、ストーリーの方は非常に平凡だ。話の道筋は『少林寺』そのまんまで、要するに悪い皇帝に一族を殺された主人公が、少林寺で功夫の修行を積んだ末に復讐を遂げる…というものである。もちろん、このままではあまりにも工夫が足りないので、本作では忍者を登場させることで新鮮味を加えているが、その試みは作品に悪影響を与えている(詳しくは後述にて)。
 悪しき皇帝・侯朝聲によって師と家族を殺された劉鴻義(ジャッキー・リュウ)は、酔いどれ坊主の江正(『十福星』では映画館の怖そうな客として登場)に救われて少林寺へと辿り着いた。悲惨な身の上に同情した少林寺の館長は、彼の入門を快く承諾する。しかし、敵の刺客は劉鴻義の居場所を探り当て、遂には侯朝聲が兵を率いて少林寺に現れた。なんとか館長の配慮で衝突は回避されたかに見えたが、たまたま外出していた劉鴻義が侯朝聲らと遭遇。全面対決は避けられぬ事態となってしまう。
劉鴻義を助けようと侯朝聲の技を受けた江正は、重症を負ったがしばらくして第一線に復帰。秘術・酔棍を劉鴻義に伝授させ、来るべき戦いの時に備えさせた。そして、遂に劉鴻義は侯朝聲一派との決戦の日を迎え、敵が呼び寄せた忍者軍団を次々と蹴散らしていく。侯朝聲は日本人のサムライ・玄吉洙を用心棒として迎えていたが、ある事情から玄吉洙は戦う事を拒絶した。
かくして、劉鴻義&救援に来た江正VS侯朝聲による、壮絶なウェポン・バトルが始まるのだが…。

▲重複するが、本作は忍者によって全てが台無しにされている。この忍者というのがフィルマーク作品に出てくるような連中で、コスチュームも赤・青・黒と非常にカラフル。それ故に、忍者が登場しただけで画面が一気に胡散臭くなり、まるで台湾ニンジャ映画を見ているかのような錯覚に襲われてしまうのだ。
場の空気を乱す忍者よりも、私が気になったのは玄吉洙と菊貞淑の存在である。
玄吉洙は「中国武術と闘ってみたい」と願う武芸者で、韓国映画では珍しい"正々堂々とした日本人"として描写されている。しかし、ラストで玄吉洙はこれといって行動を起こさず、劉鴻義の戦いを見守るだけの傍観者として出番を終えてしまう。また、思わせぶりに登場したヒロイン・菊貞淑も、特に意味の無いキャラクターでしかなかったが、この2人は演出次第でもっと深みのあるキャラになれたはず。せめて忍者よりもこちらに描写を集中しておけばなぁ…。
 功夫アクションの方は終始もっさり気味で、全体的にスローな印象を残している。ラストの劉鴻義&江正VS侯朝聲だけは凄いのだが、形の名前を言いながら闘うシーンは『少林寺』というよりも、むしろ『酔拳』に近いものを感じる。こういったセンスのズレは『疾風!!少林寺十三拳士』でもあったが、当の韓国でどのような反応を受けたのか気になるところである。


死亡魔塔
英題:Enter the game of death
製作:1981年

●幾多の映画で李小龍(ブルース・リー)の名を騙り、世界中からブーイングを浴びても我を貫いた男がいた。しがない脇役俳優から脱皮し、突如としてバッタもんになることを目指した彼は、次々と主演作を連発。いつしか香港のメインストリートから外れ、時代が李小龍からジャッキーに移ろうとも、それでも彼は李小龍になりきることを止めようとはしなかった。アクの強い香港映画界において、最も異彩を放つ異端児…それが呂小龍(ブルース・リ)であった。
そんな経歴が災いしてか、ネガティブなイメージで見られがちな呂小龍だが、本作はそんな彼の素顔が垣間見える作品なのである。

 この作品は『新死亡遊戯・七人のカンフー』や『決鬥死亡塔』のような、いわゆる『死亡遊戯』タイプの作品だが、この手のタイトルはそれほど多く作られていない。『武闘拳 猛虎激殺』『七靈寶塔』のように、『死亡遊戯』から影響を受けた作品こそあるのだが、バッタもんスターが演じた『死亡遊戯』風の作品はとても少ないのだ。
当時、李小龍のバッタもん映画にはいくつかの形式が存在していた。ひとつは『ドラゴン怒りの鉄拳』タイプの抗日映画で、バッタもん映画では最も重宝されたパターンである。バッタもん映画を見慣れている人にとっては、主人公が不戦の誓いを立てる『ドラゴン危機一発』タイプなどもお馴染みだろう。だが一方で『死亡遊戯』タイプの作品は、どうして大量に作られなかったのであろうか?
 その理由は、それぞれのタイプを読み解くことで自ずと説明できる。まず『怒りの鉄拳』タイプの作品は、日本人の横暴と弾圧される民衆、そして最後に怒り爆発な主人公の描写が欠かせないものとなっている。『危機一発』タイプはちょっと似ているが、こちらは敵と主人公の因縁を前提にして、嫌がらせを行う敵→爆発する主人公という方程式で描かれている。この2タイプの作品に共通するのは、全編に渡って「欠かせない要素」が必須となっている点だ。
だが『死亡遊戯』タイプの作品は、こういった「欠かせない要素」があまり見当たらない。要は最後に塔で闘えばいいだけなのだが、作品のタイプを象徴する独自のアイコンが乏しく、そのために他タイプの作品と差をつけられてしまったのではないかと考えられる。

 このように、実は扱いにくい題材であった『死亡遊戯』タイプの作品であるが、呂小龍は(良くも悪くも)自分の作風を貫き通している。ストーリーは抗日的な要素を含みつつ、呂小龍サイドと日本人の対立を主軸としながらダラダラと続いていく。しかし、どうやら呂小龍は「俺は塔に登りたいんだ!登りながら色んな敵と闘いたいんだ!」と思っていたようで、早くも中盤にして塔へチャレンジしてしまうのだ。
恐らく、呂小龍はここに至るまでのストーリー展開に我慢がならなくなったのだろう(本作の監督は呂小龍ではない)。本人としては気合十分に挑んでいたのに、いつまで経っても塔に登らせてくれないので、きっと痺れを切らしてしまったに違いない。その証拠に、ここから彼の大暴走が始まってしまうのである。
塔に向かった呂小龍は全フロアをあっという間に攻略するが、彼は塔を制覇しても戦いを止めようとしない。余程のストレスが溜まっていたのか、呂小龍は「もっと敵をよこせ!ハキムみたいな奴を呼んで来い!ボスにロバート・ベイカーの真似させろ!」と言わんばかりに、テンション全開で戦いを続けていくのだ。そう、まさに「お前は永遠に闘い続けるのだ」と言われた、本家『死亡的遊戯』の李小龍のように…(視聴者そっちのけで)。

 果たして、かつてここまで呂小龍が自身の欲求を炸裂させた映画があっただろうか?勿論、ここまでの台詞は私の想像でしかないのだが、実際の呂小龍も大体こんな感じだったはず。「オレ様映画」というものは香港映画界にいくつも存在するが、ここまで個人の思いが叩き込まれた作品はそうそう無いだろう。
こんな映画を世界中に公開し、それでも得意げな顔をしていられる呂小龍という男は本当に凄い。凄いけど、あえて一言だけ言わせて欲しい……………この映画つまんねーよ!(爆