しかしそれを言えば、作品の半面は客観的叙述、半面は非現実的事態に直面した語り手の「突拍子もない(事実を不正確、歪曲した情報でしか伝えない、または頭のおかしい)解釈による叙述」という構成を取った作品もあります。古くはエミリー・ブロンテの『嵐が丘』、コンラッドの『ロード・ジム』がそうなら、横光利一の短篇集『機械』収録の諸作(この、いずれも閉塞状況の人間関係を描いた短篇8篇収録の昭和6年の傑作短篇集は、もっと注目されていいものです)、フィリップ・K・ディックの『高い城の男』、トマス・M・ディッシュの『キャンプ収容』、ノーマン・スピンラッドの『鉄の夢』など文学的素養の高いSF作家の応用例(これらの作品はパラレル・ワールドと現実との衝突を描いています)、スティーヴン・ミルハウザーの『エドウィン・マルハウス-あるアメリカ作家の生と施』(11歳で夭逝した天才少年作家の親友による架空の伝記小説)などが上げられます。ナボコフ自身の『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』『ロリータ』、さらに極端な例では『青白い炎』(亡命詩人の遺作長篇詩の注釈書の形式を取り、第1部では長篇詩本文、第2部の注釈では読み進めるごとに偏執的な注釈者による、異様な陰謀的捏造解釈が浮き出てくる構成です)もそうです。作者本人にはまったくそのつもりはなかったでしょうが、三島由紀夫の『仮面の告白』『金閣寺』も語り手による自己分析が「信頼できない」小説、という読み方も可能です。また西洋文学とは異なる日本の近世文学の系譜で言えば、元禄時代の西鶴・近松の上方文芸では高いリアリズム意識が貫かれましたが、近世後期の江戸文芸では曲亭(瀧澤)馬琴、山東京伝、柳亭種彦などの読本・合巻(連続長篇小説)では徳川幕府の検閲を回避するためにリアリズムの一貫性が放棄され、かえって戯作(通俗小説)のジャンルとされた式亭三馬の滑稽本(『浮世床』『浮世風呂』)、為永春水(『春色梅児誉美』)や曲山人(ドナルド・キーンが賞賛した傑作『仮名文章娘節用』)の人情本などの方が一貫性のあるリアリズム小説になった皮肉な現象があります。馬琴、京伝、種彦らの長篇小説(読本、合巻)がいかに整合性を欠いた叙述に満ちているかは、それだけでも独立したテーマになるほどです。
いみじくも、森鷗外が喝破したように「小説とは、何をどのように書いてもいいもの」ですが、フィクション作品全般に言えることとして、それは現実原理と一致したものではないにしても、作品ごとに固有のリアリズムの一貫性、設定のブレのなさが求められるものでしょう。カフカの長篇小説の主人公はそれとは知らずに未知の世界に踏みこんでいきますが、そこに待ち受けているのは主人公が予期しなかった異様な秩序の支配する世界です。長篇小説においては未完の作品しか残さなかったカフカが同時代の大作家、マルセル・プルーストとジェイムズ・ジョイスの現実微分的小説手法(プルーストとジョイスでは、正反対と言っていいほど実際の作風は異なりますが)以上に20世紀後半以降の世界の文学に実践的な影響力を持つ作家となったのは、第二次世界大戦後の文化が20世紀前半までの既成秩序の崩壊した状況に直面したからです。それはカフカが予兆していた作品世界に呼応していました。そして戦後文学の作家たちにはカフカの世界認識は、先にはドストエフスキー、後にはフォークナーの系譜を継いだものと意識されることになりました。ものすごく簡単に20世紀の文芸思潮をまとめてしまえばそうなります。
貴族・知識階級のロシア文学者のフランス留学者たちと密接な関係のあったギイ・ド・モーパッサン(1850~1893)は、第4長篇『ピエールとジャン』(1888年)の序文の小説論で、作家が直面する困難として、
「要するに読者という集団は、作家に向かってさまざまに叫ぶ大衆から出来ている。
--慰めてくれ。
--楽しませてくれ。
--悲しがらせてくれ。
--感動させてくれ。
--夢を見させてくれ。
--笑わせてくれ。
--戦慄させてくれ。
--泣かせてくれ。
--考えさせてくれ。」
--と指摘しました。これらの読者からの要求を一度に満たす小説はほとんど不可能です。モーパッサンは10年の作家生活で6作(うち長篇2作相当の大作2作)の長篇小説、200篇もの中短篇小説を世に送り、晩年の足かけ3年は重篤な精神疾患に陥り40代前半の若さで逝去しました。モーパッサンが30歳で出世作『脂肪の塊』を発表したしたのはドストエフスキーの最晩年、『カラマーゾフの兄弟』を雑誌連載していた1880年(翌年逝去)でしたが、ドストエフスキーにしてもモーパッサンが端的に指摘したような、読者大衆からの圧力を感じながら創作を送り出していたのは間違いないでしょう。『罪と罰』(1866年)から『白痴』(1868年)、『悪霊』(1872年)、『未成年』(1875年)、『カラマーゾフの兄弟』(1880年)に至る五大長篇(しかもその合間に1866年の『賭博者』、1870年の『永遠の夫』、短篇集とエッセイ集からなる1873年~1878年連載の『作家の日記』全5巻まで書いています)が、常に読者の興味を惹きつけるべく扇情的な作風の大作群になったのも、作家の生理としては納得がいきます。
ドストエフスキーは7歳年下のレフ・トルストイ(1828~1910)を初期作品から賞賛し、五大長篇後半の『悪霊』『未成年』『カラマーゾフの兄弟』は、トルストイ1863年執筆開始・1865年発表開始~1869年完結の『戦争と平和』から触発されて構想された大長篇『無神論』『偉大なる罪人の生涯』(ともに仮題)の格子を分割して執筆されたものとされますが、ほとんど独立国ほどの広大な領地を誇った大貴族のトルストイと較べて、ドストエフスキーは貧困した没落階級の下級貴族にすぎませんでした。その作品は教養の高いとは言えない読者にもアピールするものでなければならず、雑誌連載の途中から読んでも異常な事件に継ぐ事件、ほとんど異常性格のキャラクターが跋扈するスリラー的な、今日のフィクション作品で言えばミステリー、恋愛、サスペンスに富んだ通俗性を盛大に盛りこみ、くどいくらいにそうした側面を強調した作品でなければなりませんでした。農奴制と貧困階級と貴族サロンの併存という複雑な社会背景によって、19世紀ロシア文学は他国に類を見ない「人間性の解体」の認識によった文学作品を生み出しましたが、鋭い観察と考察によって高度に精密なフィクションを創造したトルストイと比較して、ドストエフスキーの小説作法には多分に即興性が占める割合の大きさを感じさせます。洗練された20世紀作家ナボコフが「クリシェ」として批判するのは、そうした条件で大作長篇を書いていたドストエフスキーのくどいまでの雑駁性、闇鍋のような無闇な混沌、そのためドストエフスキーが援用した(ナボコフには安易な即興性と見えたと思われる)通俗性への反感だったと言えるでしょう。今回も一回の記事としてはぎりぎりの長文になってしまいました。次回ではそろそろ『地下室の手記』と五大長篇の関係に話を広げてみるつもりです。