村八分発掘ライヴ映像! | 人生は野菜スープ~アエリエルのブログ、または午前0時&午後3時毎日更新の男

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元職・雑誌フリーライター。バツイチ独身。午前0時か午後3時に定期更新。主な内容は軽音楽(ジャズ、ロック)、文学(現代詩)の紹介・感想文です。ブロガーならぬ一介の閑人にて無内容・無知ご容赦ください。

村八分 - ライヴ・アット・磔磔1992年12月20日
村八分 - ライヴ・アット・磔磔1992年12月20日


 これは世紀の発掘映像と言うべきライヴ映像です。1970年に京都でアメリカ帰りのリード・ヴォーカルのチャー坊(柴田和志)とギタリストの山口冨士夫(元ダイナマイツ)を中心に結成された村八分は1971年から本格的にオリジナル曲のレパートリーを揃え、東京でも活動するようになりましたが、数々のスキャンダラスな話題(ライヴを平気ですっぽかす、さんざん遅れて来ても乗らなければ2、3曲で止めてしまう、観客を煽った上に罵倒する)にもかかわらず本気を出せば「凄いのはローリング・ストーンズと俺たちだけ」と豪語するだけあるステージで観客を圧倒したといいます。しかしレコード・デビューを飾ったのは1973年で、すでにバンドは末期状態、京都大学西武講堂で行われた解散コンサートがエレック・レコードからLP2枚組の『ライブ村八分』として解散を隠して発売されるも、アルバム発売時にはメンバーは霧散していました。
 バンド解散のきっかけになったのはチャー坊・山口冨士夫と並んでバンドのサウンド確立に貢献していたオリジナル・ギタリストの浅田哲が、リード・ギタリストの山口冨士夫の反対を押しきって、村八分のマネージャーだったチャー坊の兄とチャー坊によって馘首された(『ライブ村八分』ではサポート・ギタリストが浅田哲の代わりを務めています)からですが(山口冨士夫証言)、また当時は(今もあまり変わりませんが)バンドのフロントマン、主にヴォーカリストがギャラの半分を受け取り、残りのメンバーは残りを人数分で割る、というのが普通でした。村八分の場合はさらにひどく、マネージャーであるチャー坊の兄が京都の大物右翼団体の若頭(!)だったため、マネージャーとチャー坊の柴田兄弟がギャラを独占してメンバーはほとんど無給という状態になっていた、と故・山口冨士夫氏が証言しています。しかも『村八分ライブ』のギャラをピンハネしてチャー坊は再びアメリカ旅行にトンズラ、というオチまでついて、村八分はアルバム・デビューとともに消滅、その存在は日本のアンダーグラウンドなロック・シーンの伝説として語られることになりました。解散時チャー坊は23歳、以降ソロ・アーティストとして活躍していくことになる山口冨士夫は24歳でした。
 チャー坊はアメリカ人女性を夫人にして帰国するも、もともと実家が裕福な反社ですからドラッグ三昧の生活を送り、20代いっぱいを精神病院への入退院をくり返してすごします。ようやくチャー坊が復帰したのは30歳を目前とした1979年、山口冨士夫がゲスト参加した村八分の再結成ライヴはハガクレ・レコードからのミニアルバム『Underground Tapes: 1979 京都大学西部講堂』(2003年リリース)で発掘されています。山口冨士夫はチャー坊の慰留を断って一時的参加のみで離脱し、今度こそチャー坊の復帰も村八分も終わりかと思われましたが、アメリカ人女性と離婚し日本人女性と再婚したチャー坊はローリング・ストーンズの初来日公演に刺激され、1990年にチャー坊は新たに新曲中心の再結成村八分で1994年4月の逝去(コタツに入って居眠り中の心不全でした)まで流動的なメンバーで活動します。この時期のライヴ音源やデモテープは2002年に遺族の編集で飛鳥新社から刊行された、晩年の日記・メモとチャー坊自身の絵画と全歌詞集、未発表写真集と年譜からなる『チャー坊遺稿集1950-1994』の付属CDに収録されました。
 この1時間15分におよぶ、京都のライヴハウス「磔磔」での1992年12月20日のライヴは、オリジナル村八分時代には合計して3分ほどの観客撮影の8ミリ・フィルム映像しか残っていない村八分史上の大発見で、メンバー自身による記録映像として残された、あまり画質の良くないヴィデオ映像(しかも「このメンバーでの演奏では最低のクオリティ」とメンバー自身が証言)ですが、ほとんど新曲、旧レパートリーもまったくアレンジを変えた(1曲目は「夢うつつ」でしょう)、画質・音質ともに商品化不可能な低画質・劣悪音質ながら、オリジナル村八分解散から20年を経て晩年までチャー坊が村八分の暖簾を守った貴重な証拠物件でしょう。村八分は唯一のアルバム『村八分ライブ』の他に、2000年代になって15枚近い音源(ライヴ、スタジオ・リハーサル)が発掘されましたが、再結成時とはいえ75分ものフル・ライヴ映像が発掘されるとはまったく予想もつかなかったことです。チャー坊がギターを弾きながら歌っているのもこれまでステージ写真ですら確認されなかったことで、1990年のチャー坊のみによる再結成村八分は京都でしかライヴ活動がなく、再活動に合わせてリリースされた1971年のオリジナル村八分の未発表スタジオ・ミニアルバム(全6曲)『草臥れて』(1991年4月30日)は話題になるもチャー坊しかオリジナル・メンバーがいない(山口冨士夫のいない)再結成村八分の活動はまったくジャーナリズムから無視されていたので、チャー坊の急逝も京都のロック・シーンでは追悼コンサートが開かれるも音楽誌では「もう(まだ)43歳だったのか」と冷淡な関心しか呼びませんでした(村八分の再評価は'80年代以降、主に山口冨士夫の旺盛な活動によるものでした)。画質・音質とも劣悪、かつ新曲中心の再結成村八分はアルバムを残さず演奏曲目に馴染みがないため、75分全編を観るには敷居の高いライヴ映像ですが、せめて音源だけでもリマスターしてライヴCD化(メンバーは「最低の演奏」と言っていますが)されれば、再結成村八分も今後新たに正当な評価がなされるかもしれません。