小説は書き出しが命(ジッド編その1) | 人生は野菜スープ~アエリエルのブログ、または午前0時&午後3時毎日更新の男

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元職・雑誌フリーライター。バツイチ独身。午前0時か午後3時に定期更新。主な内容は軽音楽(ジャズ、ロック)、文学(現代詩)の紹介・感想文です。ブロガーならぬ一介の閑人にて無内容・無知ご容赦ください。

 一八九✕年五月のさる日、午後二時頃、いかにも奇妙な次のような事件がもちあがった。 
 マドレーヌからオペラ座に通ずる大通りで、普通にちよっと見られないほど肥っているというほかには別に特徴もない中年の肥満した紳士に、これまた痩せざすの紳士が近づいていって、彼がちょうどそのとき落したハンケチを、もちろん好意からに違いない、愛想笑いをうかべながら拾ってやった。肥った紳士は黙ったままお礼をいって歩きかけたが、ふと何か思いついたように、痩せた紳士に頭を下げ、何か頼んでいるらしく、痩せた紳士がまたそれをきいてやっているらしかった。というのは、 肥った紳士が、いきなりポケットからインキ壺とペンを出して、それを今まで手に持っていた封筒と一緒に痩せた紳士の方へ無造作にさし出したのだった。そして痩せた紳士がすぐにそれへ何か宛名を書いているのを、通りすがりの人々は見たのだった。――ところでここに、どの新聞にも出はしなかったけれど、実に奇妙な物語がはじまるのである。痩せた紳士が、ペンと封筒を返して、お別れの愛想笑いをする間もあらず、肥った紳士は、お礼をいう代りに、いきなり彼の頬ぺたに平手打を喰わした。そして何事かと駆けつけた人たちが(私もその中の一人だった)驚きからわれにかえって彼を捉えようと思いつく間に、馬車に飛び乗るが早いか、姿を消してしまった。
 私はその後彼が銀行家のゼウスであることを知った。
 痩せた紳士は皆がうるさくいろんなことをいってくれるのにすっかり当惑してしまって、鼻の孔や裂けた唇から血が流れているにもかかわらず、いや別に大したこともないのだといい張った。彼はしきりにそっとしておいてくれるように頼んだ。あまりそう頼むので通行人たちもついに一人去り二人去りしてしまった。さてそこで読者諸君も、今これ以上にこの人物に触れないことを許していただきたい。今に嫌というほどお目にかかれるだろうから。
 (新庄嘉章訳)

 以上はアンドレ・ジッド(1869~1951)の中篇小説『鎖を解かれたプロメテ (Le Prométhée mal enchaîné)』(1899年刊)の序章全文です。ジッド30歳の年に刊行された同作はまだジッドの習作期の作品に当たり、匿名出版の処女作『アンドレ・ワルテルの手記』(1891年刊)、『ユリアンの旅』(1893年刊)、『愛の試み』(1893年刊)、『パリュード』(1895年刊)、『地の糧』(1897年刊)に続く刊行で、小説体の作品としてはジッド自らが「ソチ(茶番劇・風刺作品=コメディ)」と呼んだ『パリュード』に続く「ソチ」第2作でした。『パリュード』『~プロメテ』以外の作品はジッドが「詩的散文」としたもので、小説と散文詩の中間体の作品ですから、「パリュード」というタイトルの小説を書いている文学青年の火曜日から日曜日までの六日間を描いたメタフィクション小説『パリュード』の続篇的な性格の強い奇想小説と見なせます。その後2作の戯曲を経て、ジッドがようやく「レシ(中篇小説=人間ドラマ)」と称した小説らしい小説を書いたのは刊行当時黙殺された1902年刊の『背徳者』、小説家として認められたのは(1907年刊のレシ『放蕩息子の帰宅』を経た)レシ第3作『狭き門』(1909年刊)なので、『鎖を解かれたプロメテ』(邦題には『鎖を離れたプロメテ』『鎖をはなれたプロメテ』『鎖が解けたプロメーテウス』と、訳者・出版社ごとに違いがあります)はまだフランス文壇の若手作家として批評家・エッセイストとも小説家とも劇作家とも知れない、イカモノくさい青年文士時代の掉尾を飾る作品と言えて、それだけにジッドの才気がはじけた面白い小説です。
 ジッド自身が「ソチ(茶番劇・風刺作品=コメディ)」と称した初作品『パリュード』(「パリュード」とはラテン語由来の「泥沼」という意味です)も小説「パリュード」を執筆中の主人公をめぐる19世紀末のパリの文学青年たちの生態を描いて楽しく面白い中篇小説でしたが、『鎖を解かれたプロメテ』ではおふざけにさらに磨きがかかり、19世紀末のパリに現れたギリシャ神話の「火の神」プロメテ(プロメテウス)や「万能神」ゼウス、ギリシャ時代の実在人物ダモクレスが現代パリの習俗に戸惑いながら運命をたどる、という『パリピ孔明』の元祖のような、人を喰った作品です。しかし序章だけでは読者はまったく五里霧中なので、このおとぼけ小説はこの調子で続いていくのだろうかと宙吊りの感覚に襲われます。作者は最終章まで「エピローグ--//この本がこんなものだとしても、それは作者のせいではないことを読者に信じさせるために」「本というものは自分の欲したとおりに書けるものではない(ゴンクール兄弟の日記)」と、あくまでおとぼけを通します。普通、小説の書き出しは結末とともにもっとも重要で、入念に作者の推敲が凝らされているはずです。この小説はあらすじや感想を書くよりは、先に引いた序章を立ち読み感覚で読んでご興味を持たれた方でしたら、各自お読みになる方がいいでしょう。近代フランス文学の古典どころではない、こんなとんだ食わせ物の面があるからこそ、ジッドもなかなかあなどれないのです。