アンドレ・ジッドという作家(2) | 人生は野菜スープ~アエリエルのブログ、または午前0時&午後3時毎日更新の男

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元職・雑誌フリーライター。バツイチ独身。午前0時か午後3時に定期更新。主な内容は軽音楽(ジャズ、ロック)、文学(現代詩)の紹介・感想文です。ブロガーならぬ一介の閑人にて無内容・無知ご容赦ください。

 アンドレ・ジッド(1869~1951)の日本語訳書が、数点の著名作を除いて1980年代~1990年代にはほとんど絶版になっていたのは前回述べた通りですが、平成11年(1999年)には角川書店版(実質的選集)『ジイド全集』(全10巻・昭和32年/1957年~昭和34年/1959年)から40年ぶり、かつ戦前の2種の生前全集以来5度目になる翻訳全集(選集)『アンドレ・ジッド代表作選』が、フランス文学者・若林真(1929~2000)氏の個人全訳によって刊行されました。15年のちの平成26年(2014年)から二宮正之(1938~)氏の単独訳で筑摩書房版『アンドレ・ジッド集成』(全5巻)が刊行されていますが、現在第4巻までで完結していないので、刊行翌年の逝去によって若林真氏のライフワークとなった『アンドレ・ジッド代表作選』を刊行元のウェブサイトによって収録内容、概要をご紹介しておきましょう。収録作品の原著刊行年はご紹介に当たってつけ加えたものです。また短篇は「」で、中篇・長篇は『』で区別しました。

若林真個人訳
アンドレ・ジッド代表作選(全5巻)
アンドレ・ジッド 著
若林 真 訳
慶應義塾大学出版会・A5判/上製初版年月日:1999/06/30
定価 27,500円(本体25,000円)

20世紀を代表する大作家アンドレ・ジッドの代表作選集。ジッド独自の小説概念にそった分類により23の重要作品を5巻に編成。若林真(慶應義塾大学名誉教授)個人訳による。解説として訳者の研究論文を収録。ページ数平均370頁。(分売はできません。) 

第1巻 詩的散文
『アンドレ・ワルテルの手記』(1891年)
「アンドレ・ワルテルの詩」(1992年)
「ナルシス譚」(1891年)
『ユリアンの旅』(1893年)
「愛の試み」(1893年)
『地の糧』(1897年)
『新しい糧』(1935年)

第2巻 ソチ
『パリュード』(1895年)
『鎖が解けたプロメーテウス』(1899年)
『法王庁の抜け穴』(1914年)

第3巻 レシ第1部
『背徳者』(1902年)
「放蕩息子の帰宅」(1907年)
『狭き門』(1909年)
『田園交響楽』(1919年)
「汝も亦……」(1922年)

第4巻 レシ第2部
「エル・ハジ」(1897年)
『イザベル』(1911年)
『女の学校』(1929年)
『ロベール』(1930年)
『ジュヌヴィエーヴ あるいは未完の告白』(1936年)
「テセウス」(1946年)

第5巻 ロマン
『贋金つかい』(1926年)
『贋金つかいの日記』(1926年)

著者
アンドレ・ジッド(Andre Gide)
20世紀フランスを代表する作家。(1969~1951)
小説、戯曲、批評、詩等多くの領域で活躍。とくに小説において生涯にわたって先駆的実験に挑み、両大戦間の青年層に圧倒的な支持を得る。『N.R.F. (新フランス評論)』誌(1908年創刊)の指導者としても重要な役割をはたす。
処女作『アンドレ・ワルテルの手記』(1891年)以来、「ソチ」(茶番、人間のドラマに喜劇的照明をあてた作品)として『パリュード』(1895年)、『鎖が解けたプロメーテウス』(1899年)、『法王庁の抜け穴』(1914年)等、「レシ」(物語、人間のドラマに悲劇的照明をあてた作品)として『背徳者』(1902年)、『狭き門』(1909年)、『イザベル』(1911年)、『田園交響楽』(1919年)等を次々に発表し、ありうべき「ロマン」(小説)を追求しつづけた。1925年、唯一「ロマン」(小説)と自称する作品『贋金つかい』を完成、後の世代に影響の輪を大きく拡げる。『贋金つかい』以降は、社会問題に関心を寄せる警世家として批評活動を主にしたが、「レシ」『女の学校』三部作(1929年~1936年)等の傑作をのこす。1947年、ノーベル文学賞を受賞。

訳者
若林 真(わかばやし・しん)
1929年、新潟県佐渡郡に生まれる。
1959年、慶應義塾大学大学院博士課程修了。現在、慶應義塾大学名誉教授。
専攻は現代フランス文学。アンドレ・ジッドを中心とした研究、翻訳において多大な業績をのこす。
主な著書に、『絶対者の不在』(第三文明社、1973年)、『現代フランス文学作家作品事典』(共編、講談社、1981年)等。主な訳書に、アンドレ・ジッド『贋金つかい』(集英社、1990年)、ジョルジュ・バタイユ『C神父』(二見書房、1971年)、ピエール・クロソウスキー『歓待の掟』(共訳、河出書房新社、1987年)、マルグリット・ユルスナール『夢の貨幣』(集英社、1978年)等。

 以上が版元のサイトの紹介文ですが この『アンドレ・ジッド代表作選』はガリマール社プレイヤード叢書「ジッド名作選」(モーリス・ナドー編)を底本に、別巻収録の処女作『アンドレ・ワルテルの手記』とその続篇をなす詩集「アンドレ・ワルテルの詩」を追加して、ジッド自身が分類する「詩的散文」「ソチ(喜劇・風刺小説)」「レシ(悲劇・人間ドラマ小説)」「ロマン(本格的長篇小説)」(通常フランスの小説は長さに従い「コント(短篇小説)」「レシ(中篇小説)」「ロマン(長篇小説)」と呼ばれますから、内容と構成に即して「ソチ」「レシ」「ロマン」としたのはジッド独自の分類です)に編成し直したもの、と第1巻の訳者序文「はじめに」に記されています。若林氏がこれまで文学全集類のために訳してきたジッド作品を改訳し、若林氏が未訳だった作品を新たに訳し下ろしたもので、各巻の巻末に若林氏による既発表の解説・論考の改稿と書き下ろし論考を集成した、翌年逝去する若林真氏が晩年に全力を注いで完成させた非常に充実したジッド選集です。アンドレ・ジッドの翻訳全集ないし選集としては角川書店版全集(選集)以来40年ぶりの刊行になり、『アンドレ・ジッド代表作選』から15年後に開始されて現在刊行中の二宮正之氏単独訳『アンドレ・ジッド集成』(平成26年/2014年~)が完結しても、個人全訳としては初になるこの若林真氏訳『アンドレ・ジッド代表作選』は、刊行から25年を経てなお日本でのジッド翻訳史に残る力作でしょう。全5分冊分売不可、価格も学術書並みに高価なため、運良く安価で古書で入手するか思いきってセット購入でもしない限り、図書館蔵書から借り出す他は容易に読めない本になっているのは残念です。

 ただしあくまで代表作選集のために抜けている重要作も多く、戯曲が一切未収録なのはジッド作品中の比重からはまだしもですが、批評からは初期の象徴主義論「ナルシス譚」や後期の聖書論考「汝も亦……」しか入らず、ドストエフスキー論(1908年、1923年)、オスカー・ワイルド論(1910年)、シャルル=ルイ・フィリップ論(1911年)、モンテーニュ論(1929年)などの重要論考や『プレテクスト』(1903年)から『秋の断章』(1949年)にいたる文芸批評集、1920年代末~1930年代の『コンゴ紀行』や『ソヴィエト紀行』などの重要な社会批評(ルポルタージュ)は採られていません。また同性愛を論じた匿名出版の問題作「コリドン」(1920年)や実名でジッド自身が同性愛者であることを告白した自伝的長篇『一粒の麦もし死なずば』(1921年)も抜けています。さらに1920年代末~1930年代のジッドは50代末~60代にして青年時代のアフリカ放浪から発展した社会問題に本格的に取り組んだので、その時期のジッドは創作活動よりも植民地問題を取材した『コンゴ紀行』(1927年)とその続篇『チャドからの帰還 - 続コンゴ紀行』(1928年)、スターリン独裁下が進むソヴィエトを取材した『ソヴィエト紀行』(1936年)とその続篇『ソヴィエト紀行修正』(1937年)は1926年刊行のジッド最大の小説『贋金つかい(贋金つくり)』以降の主著とも言えるものですが、それらも外されているのではジッドの全体像はつかめません。『代表作選』は膨大なジッドの文業からほぼ小説のみに限定して全集から1/4ないし1/3を選んだ選集です。しかし小説については(自伝的長篇小説とも自伝そのものとも言える『一粒の麦もし死なずば』を除いて)ほぼ全作品を網羅しているので、小説家としてのジッドの軌跡をたどるにはもっとも圧縮されて無駄のない編纂とも言えます。特に「詩的散文」を収めた第1巻は19世紀末にマラルメの「火曜会」に出入りし、盟友のポール・ヴァレリー(1871~1945)とともにステファヌ・マラルメ(1842~1898)に学んだジッドの象徴主義文学者としての側面をよくまとめた編纂です。ただしジッドが19世紀末~20世紀前半をまたいだフランスを代表する大文人だとしても、小説家としての業績は劇作家としての業績同様、多岐に渡る膨大な批評、紀行文(ルポルタージュ)、日記、またフランス文壇の名伯楽としての編集者活動の一端にすぎないとも言えるので、そこに主に創作分野で大成した小説家を指す「大作家」とは呼びづらいジッドの屈折があります。ジッドの小説は文人ジッドの生涯の段階をその都度わかりやすい形で刻んだもので、小説そのものが重要ではなく、ジッドという文人の総体そのものが肝要、と見なす方がジッド作品の理解に近づけるのです。

 しかしその場合、フランスと事なる文化環境に生きる日本の読者にはジッド作品は結局異邦の文化の産物、という隔靴掻痒の観も否めないので、大正末~昭和初頭における日本のジッドのブームは西洋文化の移入のために背伸びした文学青年の渇望に中途半端に呼応したものとの見方も否定できません。ジッド作品の翻訳紹介は新潮社の「現代仏蘭西文芸叢書1」として刊行された山内義雄(1894~1973)訳の『狭き門』(大正12年/1923年)に始まりました。大正12年は関東大震災の年であり、また明治以来の「西洋文化=キリスト教信仰」と江戸時代以来の「恋愛=色事」が依然として併存しており、『狭き門』のキリスト教信仰と恋愛の相克が日本の読者にはまだ斬新で深刻な文学的テーマとして受け取られていた時代です。以降、昭和初頭からジッド作品は次々と翻訳され、文芸誌から文壇の重鎮・志賀直哉にジッドの新作『女の学校』(昭和4年/1929年)の感想を求められて、志賀は「(夫婦間の男女の機敏や葛藤を描いて)なかなか良く書けている。嫁入り前のわが家の娘にも読ませたい」(大意)と賞賛したりしています。また当時の文壇を盟友・川端康成とともにリードした横光利一が、ジッドの『贋金つくり』に触発された「純粋小説論」(昭和5年/1930年4月)で、「日本文学の伝統とは、フランス文学であり、ロシア文学だ。もうこの上、日本から日本人としての純粋小説が現れなければ、むしろ作家は筆を折るに如くはあるまい」と表明し、また萩原朔太郎が横光利一に先だって、長篇詩論『詩の原理』(昭和3年/1928年12月)の結論で「島国日本か?世界日本か?」と問いたのも同じ問題意識からでした。当時ジッドの移入にもっとも貢献したのは志賀直哉や萩原朔太郎、横光利一を尊敬する小林秀雄、河上徹太郎らの「文學界」でしたが、小林秀雄や河上徹太郎はジッド作品を初翻訳するとともにジッドをポール・ヴァレリーと並ぶ象徴主義文学者として解釈し、「(ジッドの出発点は)現実との交渉を遮断した孤独のうちに、出来るだけ純粋な自我の像を探ろうとする、飽く事を知らぬ清教徒的情熱の絶対性にあった」(小林秀雄)、「詩人の随一の自尊心のもとである『自意識』なんて、誰でも持っているもので、しかも人に誇示する何ものでもない。その上、社会生活の上では他人に迷惑千万な存在である。彼はこれを『売るか、諦めるか、馴らすか』しなければいけない」(河上徹太郎)と、小林と河上ではややニュアンスが異なりますが、「自我と外界の『内面』の劇」という象徴主義の延長からの見方から、ジッド作品を19世紀文学を乗り越えた20世紀小説の黎明としています。

 しかし「文學界」同人中唯一の詩人、中原中也による短い論考「アンドレ・ジイド管見」(『ジイド全集』月報第三号、建設社・昭和9年/1934年5月、『中原中也全集』所収)は萩原朔太郎や横光利一の問題意識や、「文學界」同人仲間の小林秀雄、河上徹太郎の芸術至上主義的見解の隙を突いたものでした。「ジイドの活動の始まるのは(フランス19世紀デカダン文学の)その下り坂がもう殆ど下り切ったという時であった」「ジイドの時代はまことにそうしたまごつきの時代であった」「ジイドの作品を通覧すると、その(19世紀デカダン文学の)ネタの切れた、実生活の分散仕切った時代を直観した所から生まれた芸術だという感じが、他の如何なる感じよりも強くするのである」「そして、その文体の、何だか息詰まるようなもの、出場のないといった感じ――それはジイドの不名誉であり名誉であるのだが、それというも実生活側がすっかり無気力であり、芸術家が却って実生活人の蓄積的実直さを要するとも云える場合に、而も芸術自体は放散的過程を好むということから生じる、二重性の故であることを注意しよう」。中原中也が愛読・賞賛した日本の小説家が岩野泡鳴、葛西善蔵、嘉村礒多と露悪的な私小説を極めた作家の系譜だったのを思い合わせてもいいですが、批評や小説を書くと悪文家の中原のジッド批評(というより明確な批判)は悪文ながらさすが詩人ならではの鋭いもので、中原がここで指摘しているのはジッド作品は結局フランスの19世紀末~20世紀初頭の文芸思潮の生んだフランス文学ならではの限界が露わな産物であり、それを翻訳で読む日本人読者の「実生活」とは関わりのない「翻訳文化」でしかないのではないか、という地に足のついた見解です。ジッドやヴァレリーを読んで最新の西洋文学に触れた、と悦に入る批評家や読者とは反対の意見であって、中原の指摘は「高等な西洋」異文化を日本にそのまま移入できるという楽観主義を婉曲に、かつはっきりと指弾したものです。

 志賀直哉がジッドの最新作『女の学校』の感想を求められてごく先入観なしに家庭小説として読み、「わが家の娘に読ませたい」と率直に答えたのと中原の指摘は表裏一体で、皇室と対等に交際できる中産上流階級(志賀の家系は貴族ではありませんが、上流士族でした)の志賀直哉なら西洋文学コンプレックスなしに自然に接することができても、庶民階級の文学読者にはジッドは最新の西洋菓子のようなものだったでしょう。中原中也は不得意な悪文の批評ながらはっきりとジッドの新しさをフランス文学思潮の変転を背景にしての目新しさでしかなく、日本の読者にとって切実な「実生活」とは遊離したものと指摘したので、それは同じ「文學界」同人の小林秀雄があえてジッドの革新性のみを強調し、河上徹太郎が小林よりは一歩引いた見方で論じたよりも、詩の実作者ならではの批評的直観において正鵠を射た観点でした。フランス文学思潮におけるジッドの出現とその役割については必然、しかしそれを受容する日本の文学読者にとっては虚妄、という判断です。これは中原中也ほど強固な文学観を持った詩人だからこそはっきり見えていたことで、中原は「仏蘭西短篇集(河出書房)読了。但、ジイドのものだけ読まず」(昭和11年/1936年8月4日付)と、逝去の前年の日記にまで記しています。中原が自作「朝の歌」で作風の確立に自信を抱いた昭和2年(1927年、20歳)の日記には日夏耿之介(「馬鹿だ。あの詩は空白の沿革の形象だ」)、堀口大學(「品性下劣」)、野口米次郎(「この馬鹿奴!暗唱と女々しさと、情熱のない持久性と、それきり」)、リルケ(「謂い得べくんば、こは理性あるダダか?つまらない」)への酷評と前後して、「世界に詩人はまだ三人しかおらぬ。/ヴェルレエヌ/ラムボウ/ラフォルグ/ほんとだ!三人きり」(4月23日付)と記しており、また同年には「岩野泡鳴/三富朽葉/高橋新吉/佐藤春夫/宮澤賢治//毛唐はディレッタントか?/毛唐はアクティビティがある」(6月4日付)と、中原が認めた日本の詩人を五人だけ列挙するとともに「毛唐はディレッタントか?/毛唐はアクティビティがある」と解釈の難しい意見を添えています。これを文字通りに取れば、中原は五人の日本詩人を「毛唐」とは異なる反ディレッタント詩人と認めながら、日本の詩人の「アクティビティ」の稀薄さに対して「毛唐」はより行動力がある(この五人を持ってしても行動力の不足がある)、と考えたということでしょう。

 中原中也が20歳で日記に書きつけた「世界に詩人はまだ三人しかおらぬ。/ヴェルレエヌ/ラムボウ/ラフォルグ/ほんとだ!三人きり」「岩野泡鳴/三富朽葉/高橋新吉/佐藤春夫/宮澤賢治//毛唐はディレッタントか?/毛唐はアクティビティがある」という見解は、30歳で亡くなるまでおそらく変わらなかったと思います。ヴェルレーヌ、ランボー、ラフォルグは言うまでもなくいずれもフランス象徴主義の詩人で、天然的な詩才に恵まれたヴェルレーヌに較べてより方法的に意識的な詩人だったランボー、ラフォルグの本格的評価と影響力は20世紀により高まりましたが(中原もその一人です)、そうした中原中也の文学観からは象徴主義末期から上澄みだけすくってみせたようなジッド(やヴァレリー)の存在は「ディレッタント」にして厚顔無恥な「アクティビティ」の発露(としての作品)でしかない、と見えていたでしょう。中原が傾倒したヴェルレーヌ、ランボー、ラフォルグはまったくディレッタントではなく、全身を詩に賭けていた詩人たちでした。中原がが愛読・賞賛した日本の小説家、岩野泡鳴、葛西善蔵、嘉村礒多らの小説もそうです。マラルメ門下生だった頃に友情を結んだジッドとヴァレリーは、まだ一介の書生だった頃にジッドが「書くことを禁じられたら、ぼくは死んだ方がましだ」と言ったのに対して、ヴァレリーが「書くことを強制されたら、ぼくは死んだ方がましだ」と答えた、という出来すぎな会話を交わしたという伝説がありますが、まさにそうした自意識こそ中原のもっとも嫌うところだったでしょう。ヴェルレーヌ、ランボー、ラフォルグ、また岩野泡鳴、三富朽葉、葛西善蔵、佐藤春夫、高橋新吉、宮澤賢治、嘉村礒多らは書くことと生きることが一致していた詩人・作家たちであり、岩野泡鳴が自作のライフワークを「ゲーテの『ファウスト』に匹敵する」と誇っていたのも、ヴェルレーヌや葛西善蔵が人生の後半には駄作を書き続けたことも、高橋新吉が「調子の低い/素晴らしさ」で中原の最愛の先輩詩人だったのも、書くことなどもはやないと決めたランボーや三富朽葉が20歳で詩作を断ったのも、ラフォルグや嘉村礒多、宮澤賢治が早すぎる晩年まで創作に力を尽くしたのも、「禁じられる」「強制される」といった意識に縛られることがなかったからです。

 そうした詩作・作家たちに較べて、中原中也の眼にはジッドの作品系列はいかにもフランス文壇の時流に対して大見得を切った、あまりに創り上げた意図が露骨すぎる、自発性というよりはジャーナリスト的な狙いの目立つ「ネタの切れた」「まごつき」に開きなおった、しらじらしさを感じさせるものに映ったと思えます。ジッドはフランス文壇の重鎮として定期的に問題作を投下していたとも言えるので、全体像を見れば作者の内的必然が多彩な作品系列から浮かんでくるものですが、個々の作品はジッド自身が持てるすべてを投げこんだと見える作品が見当たらないとも言えます。自伝的長篇大作『一粒の麦もし死なずば』も、ジッド自身が生涯の大作、唯一の本格小説とした大作『贋金つかい(贋金つくり)』もそうした観が否めません。かえって全5巻におよぶ『ジッドの日記』こそがジッドの残した最大の文学的遺産と目される理由がそこにあり、小説作品も批評やエッセイも『日記』の中に包括されている、という評価の方がジッド没後には定着しています。若林真氏個人訳の『アンドレ・ジッド代表作選』や二宮正之(1938~)氏単独訳の『アンドレ・ジッド集成』は、だからこそ新たにジッドの小説作品の見直しを図った試みですが、かつてほぼ全作品が大手出版社の文庫版で広く読まれた(そして今日読まれなくなった)ジッドの復権は依然として未知数です。しかも絶版となった各社からの文庫版ジッド作品はいずれも優れた翻訳で、新訳に頼らずとも安価な古本で集めることができ、100年前の古典として十分面白いものです。しかしジッドよりさらに100年~50年先立つスタンダールやバルザック、フローベール、ゾラやモーパッサンの作品、またジッドの同時代人だったロマン・ロマン、プルースト、マルタン=デュ・ガール、モーリアックほどその面白さや重量感、小説的完成度はおよばない、というのが今日的評価でしょう。意外にも斬新なミュージシャン小説(!)『ジャン・クリストフ』、波乱に富んだ青春大河小説『チボー家の人々』は確かにジッド作品より面白いでしょうが、可能性となるとまた話は違います。いずれも早産のうちに臍の緒を切ったような、未熟児のようなジッドの小説は、実現された成果よりも可能性の方がはるかに暗示的と言えて、それゆえかつての読者には熱心に読まれ、結論を求めることに性急な今日の読者には見放されたとも言えるのです。今回も中途半端な雑感以上に出ない雑文になりましたが、次回以降は個別の作品に即してジッド作品の再読を進めたいと思います。