アンドレ・ジッドという作家(1) | 人生は野菜スープ~アエリエルのブログ、または午前0時&午後3時毎日更新の男

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元職・雑誌フリーライター。バツイチ独身。午前0時か午後3時に定期更新。主な内容は軽音楽(ジャズ、ロック)、文学(現代詩)の紹介・感想文です。ブロガーならぬ一介の閑人にて無内容・無知ご容赦ください。

 アンドレ・ジッド(André Gide, 1869~1951、1947年ノーベル文学賞受賞)は、日本に初紹介された大正後期から昭和30年前後までは「ジイド」の方が一般的表記でしたが、現行の日本語表記では「ジッド」と呼ぶのが定着しています。昭和初頭にあってジッドは最新のフランス文学を代表する作家として日本ではもっとも注目され、ジッド60代の在命中にもかかわらず、二種類の翻訳全集(金星堂『ジイド全集』全18巻・昭和9年/1934年~昭和10年/1935年、建設社『アンドレ・ジイド全集』全12巻・昭和9年/1934~昭和12年/1937年)が刊行されたほどでした。初期の悲劇的な自伝的青春小説『車輪の下』(1905年)が代表作とされるために今ではあまり読まれなくなったヘルマン・ヘッセ(1877~1962、1946年ノーベル文学賞受賞)と同様、キリスト教信仰と恋愛の相克をテーマにした『狭き門』(1909年)がもっとも知られた作品のため、なんとなく辛気臭い古臭い作家、読んでもつまらなさそうな作家と見られがちなのではないかと思われます。かく言う筆者がかつてそうで、高校時代に文学全集で読んだ『狭き門』や『車輪の下』が読んでも何の感銘もなかったため、ジッドとヘッセはつまらないと決めこんでいました。それが変わったのは社会人になってからで、通勤電車でまず読み返したのは学生の頃にも初読していたドストエフスキーの『悪霊』とトーマス・マンの『魔の山』でしたが、新たに社会人となった覚悟から読み返した『悪霊』と『魔の山』の感銘は圧倒的でした。ジッドやヘッセは昭和30年代から40年代に広く読まれていたので、1980年代には古書店の店頭の50円均一文庫本でほぼ全作品が買い揃えましたが、『悪霊』や『魔の山』を再読して蒙が開けると、かつて面白くも何ともなかった『狭き門』『田園交響楽』の作家、『郷愁』『車輪の下』の作家も今こそ読み返さないと(また未読作品も読まないと)、ひょっとしたら人生の糧を逃してしまうかもしれないぞ、と思うようになりました。

 幸い学生時代に古書店でアルバイトしていた頃に文庫化されていたジッド作品やヘッセ作品は「一応持っておくか」と買い揃えてあったので、総決算的大作(ジッドで言えば『贋金つくり』、ヘッセで言えば『ガラス玉演戯』)以外は通勤電車の往復時間で一気読みできる長さのジッド作品、ヘッセ作品を毎日年代順に読んでいきました。ジッドについては『背徳者』『法王庁の抜穴』『贋金つくり』なども学生時代に一応読んでいましたが、未読の作品が多かったヘッセ同様に年代順に読んでいくのは感銘も発見も多く、たとえ玉石混淆でも(ヘッセの『荒野のおおかみ』は大失敗作、しかし『知と愛(ナルチスとゴルトムント)』は掛け値なしの名作です)、読書の喜びを与えてくれました。

 ジッド(1869年生まれ)とヘッセ(1877年生まれ)は世代的にはややヘッセが後輩、早熟かつ晩熟だったトーマス・マン(1875~1955)とは同世代ですが、マンには早くも20代半ばで大作『ブッデンブローグ家の人々』(1901年)、50歳で大作『魔の山』(1924年)の決定的な大傑作(のちには1947年の大作『ファウストス博士』)があり、1929年にはノーベル文学賞を受賞しています。ジッドやヘッセは実際には、第二次世界大戦後の晩年まで毀誉褒貶の激しい作家でした。国内文壇や国際的名声でもロマン・ロラン(1866~1944、1916年ノーベル文学賞受賞)や年少のマルタン=デュ・ガール(1881~1958、1937年ノーベル文学賞受賞)、フランソワ・モーリアック(1885~1970、1952年ノーベル文学賞受賞)より評価が遅れていたほどです。マルセル・プルースト(1871~1927、『失われた時を求めて』)、ローベルト・ムージル(1880~1942、『特性のない男』)、ジェームス・ジョイス(1882~1942、『ユリシーズ』)、フランツ・カフカ(1883~1924、『審判』『城』)などは没後に評価が高まったので、生前にノーベル文学賞受賞者となったヘッセやジッドはまだしも恵まれた作家とも言えますが、大作が未完のままに終わったプルースト、ムージル、文学の前衛を極めたジョイス、生前はプラハのローカル作家にすぎず没後発見の膨大な遺稿でプルーストやジョイスと匹敵する大作家と認められたカフカらは、いずれも生前には全貌が知られず、限られた読者しか持ち得ませんでした。
 ジッドの名声は晩年に頂点に達し、第二次世界大戦後にも日本での全集刊行はジッドの逝去と同時に完結した新潮社『アンドレ・ジイド全集』(全16巻・昭和25年/1950年~昭和26年/1951年)、実質的には選集の角川書店『ジイド全集』(全10巻・昭和32年/1957年~昭和34年/1959年)が刊行され、また『ジッドの日記』(生前刊行分4巻、没後刊行分1巻)も全訳されています。各種の「世界文学全集」にもジッドの巻は1巻を割かれ、主要作品のほとんどは大手文芸出版社各社から文庫化されてロングセラーとなっていましたが、ヘッセと同様に広く読まれていたのは昭和40年代までで、昭和50年代~昭和60年代には数作の代表作を除くほとんどの作品は順次絶版になっていました。大まかに言ってしまうとジッドやヘッセが読まれていたのは戦前からの名声を知る昭和前半生まれから、そうした読者を親や教師に持って育った昭和40年代いっぱいに学生時代を過ごした(いわゆる「団塊」の)世代までで、昭和50年代、ことに1980年代(昭和55年~)以降には新たな読者がつかなくなるとともに文庫化作品も次々と絶版になっていった、ということでしょう。新潮社がまだGHQ占領下の昭和25年~26年に刊行した全集は新潮社が総力を上げた出版で、当時望み得る最上の上質紙とフランス装で刊行された記念碑的全集でした。それから25年を経てジッドがあまり読まれない作家になるとは実は日本のフランス文学者の間でも予想されていたことで、昭和30年代に続々刊行された各種の「世界文学全集」のジッドの巻の解説では「ジッド最大の文学的業績は19世紀末から20世紀前半のフランス文壇史である『日記』で、その作品は徐々に忘れられていくのではないか」という評価がすでに見られます。そしてその『ジッドの日記』もフランス文壇史という特殊性から小説作品のように広くは読まれず、生前刊行分の一部は文庫化されていましたが小説作品よりも早く絶版になっています。また文壇の名伯楽にして才人としての人気もジッドより20歳若い世代のジャン・コクトー(1889~1963)にはおよばず、小説家としての画期性や力量、作品の魅力においてもプルーストの永続的評価にはかなわない(ジッドの全創作を集めても、プルーストの未完の大作『失われた時を求めて』の分量には達しません)、というのが現在の読者の公約的意見でしょう。

 ならばなぜ今日ジッドを読み返す意義があるのか。それは小説家としては大成できなかったジッドの作品よりも、生涯試行錯誤を重ねたジッドという文人の存在の方が大きいからです。その点でジッドは作家としては一作ごとに小粒ながら完成度の高い小説を残し得たヘッセよりも、なし得なかった可能性(中途半端さ、と言ってもいいですが)のスケールにおいてより大きく、それゆえに確かに20世紀前半のフランスを代表する作家だった、と言えるのです。ロマン・ロラン、プルースト、モーリアックには作者の意図をほぼ完全に達成した作品があるでしょう。それゆえ彼らの代表作は大なり小なり古典と目される威厳があります。それは完全な燃焼感とも言い換えられて、後半の巻は作者の逝去により草稿段階で未完に終わったプルーストの『失われた時を求めて』にも作者の総体を投入した燃焼感があれば、コクトーの中篇『山師トマ』『大股びらき』『恐るべき子供たち』といった規模の小さい作品にもそれがあります。しかしジッド作品は、一作ごとにそれ相応の成功は収めていても、作者が自身のすべてを投げこんだ燃焼感が乏しいのが気にならずにはいられません。もちろんジッドは出し惜しみしていたのではないでしょう。しかし作品化するには過剰なジッド自身の表現意欲と創作力の食い違いがあり、どの作品にも完全な実現の手前でまとめ上げてしまったような未完成感があるのです。ジッドには「不朽の名作」はありません。代表作とされる『背徳者』や『狭き門』ですらその背後にはもっと過剰な自己解体の意志があり、にもかかわらず作者自身の躊躇から仕上げられた作品はどこか本来意図された追究の手前にとどまった観があります。おそらくジッドほど小説家志願の読者にとって学べることの少ない作家はありません。ジッドの作品ほど全作品の総体においてようやくその位置を見つけられる、作者につきすぎた創作はないからです。だからこそジッドは今なお謎めいた作家であり、それを魅力と考えるか、単に古臭く下手な小説に見えるかで読者にとって試金石となる存在です。なかなか過去の大作家としてかたづけられる存在ではないのです。

(以下次回)