シュテファン・ゲオルゲ「うっとうしい夕べ、しらじらしい朝」 | 人生は野菜スープ~アエリエルのブログ、または午前0時&午後3時毎日更新の男

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元職・雑誌フリーライター。バツイチ独身。午前0時か午後3時に定期更新。主な内容は軽音楽(ジャズ、ロック)、文学(現代詩)の紹介・感想文です。ブロガーならぬ一介の閑人にて無内容・無知ご容赦ください。

Stefan George (1868~1933)


(うっとうしい夕べ、
しらじらしい朝)
シュテファン・ゲオルゲ

うっとうしい夕べ、しらじらしい朝、
それらは彼女のものがなしい旅の永遠の伴侶だ、
涙と苦痛のうちにしのびやかに
それらは彼女の軌道をさだめていた。

彼女がはいろうと願う高い門を前にして
誰も彼女の誠実をあかしするものはない、
そして彼女の身のぬくもりと
ぬくもりを共にしようとさしのべられる手もない。

こうしてやがて彼女は騒音に呑みこまれてしまう、
そして騒音のなかでの劣悪な獲物を手離さずに 門から引き返すのだ。
そしてこれまでのようにきょうもまた、
近づいてきては彼女を救い出しそうな句を つぶやいている。

(「Der abende schwül・der morgen faht und nüchtern」手塚富雄訳、詩集『魂の一年 (Das Jahr der Seele)』1897より)
 この4行3連の無題の短詩(「うっとうしい夕べ、しらじらしい朝」は1行目から取られた仮題です)は、ドイツ詩人シュテファン・ゲオルゲ(1868~1933)の出世作となった第四詩集『魂の一年 (または『魂の四季』Das Jahr der Seele)』1897の第四章「悲しい舞踏」に収められた一篇です。ゲオルゲはフランス象徴主義に学んで出発し、ヒューゴ-・フォン・ホフマンスタール(1874~1929)、ライナー・マリア・リルケ(1875~1926)とともにドイツ現代詩の始祖となった詩人で、日本の詩人では志し半ばで夭逝した北村透谷(1868~1894)と同年生まれになり、生涯に12冊の著作を残し、ナチス政権成立を避けて国外に移った1933年12月に66歳でスイスのロカルノで没しました。著作目録を上げておきましょう。

『讃歌』Hymnen (1890、自費出版)
『巡礼』Pilgerfahrten (1891、自費出版)
『アルガバール』Algabal (1892、自費出版)
『牧人と頌歌、歌と伝説、架空庭園』Die Bücher der Hirten- und Preisgedichte der Sagen und Sänge und der hängenden Gärten (1895)
『魂の一年』Das Jahr der Seele (1897).
『生の絨緞』Teppich des Lebens (1899)
『讃歌、巡礼、アルガバール』Hymnen, Pilgerfahrten, and Algabal (1900、初期3詩集の合本)
『雷管』Die Fibel (1901)
『日々と仕事』Tage und Taten (1903).
『第七の環』Der siebente Ring (1907).
『盟約の星』Der Stern des Bundes (1913)
『戦争』Der Krieg (1917).
『新しき国』Das neue Reich (1928).

 ゲオルゲは民族意識が高く、ことに最後の詩集『新しき国』は第一次世界大戦敗戦後のドイツ文化の復興をテーマとしたため、晩年にはナチス政権によって「国民詩人」とされ政治的利用の手が伸びました。ゲオルゲはそれを避けてスイスに移住してすぐ亡くなったため第二次世界大戦後にはゲオルゲの詩業への評価は一時的に微妙になりましたが、晩年のゲオルゲに私淑した詩人たち(その中にはのちにヒットラー暗殺計画を立てる貴族グループの一員も含まれていました)の証言で、すぐにゲオルゲの名誉は回復されました。
 ご紹介したのは難解と言われるゲオルゲの詩篇でも比較的難しくなさそうに見える一篇で、手塚富雄氏の名訳によってこなれた日本語に移されている詩篇です。もともと詩集では無題詩なので、慣習によって1行目を取って「うっとうしい夕べ、しらじらしい朝」と親しみやすい書き出しがタイトルになっているのも、4行3連、12行の短詩なのも、詩に仮構された人物が「彼女」だけで、詩篇全体が「彼女」に焦点が絞られているのも取っつき易さを感じさせます。ところがそれが曲者で、この詩が語ろうとしている内容をくみ取ろうとすると、易しく日常的な語彙で綴られながら、たった12行の中に短篇小説ほどのドラマが圧縮されているのがわかります。通常の小説ならば一度読み通せば理解できるドラマが、詩にあっては初読だけではわからず、入念に二度三度しなければ作者の作り上げた詩の全体像はつかめないのです。詩の注釈ほど味気ないものはありませんが、1連ずつ見ていきましょう。

うっとうしい夕べ、しらじらしい朝、
それらは彼女のものがなしい旅の永遠の伴侶だ、
涙と苦痛のうちにしのびやかに
それらは彼女の軌道をさだめていた。

 この第一連はそう判読するのは難しくないでしょう。この詩篇が収められた詩集が『魂の一年(魂の四季)』と題された通り、この「彼女」は特定の人格や性格を持った人物ではなく、「魂」と読み替えて読むことで詩人の意図はより明確になります。「彼女(魂)のものがなしい旅」とは内面的に見た「魂」の彷徨そのものです。各行の位置を置き換え、「彼女」を「魂」に替えて、「うっとうしい夕べ、しらじらしい朝、/涙と苦痛のうちにしのびやかに/それらは魂の軌道をさだめていた。/それらは魂のものがなしい旅の永遠の伴侶だ」と散文化すれば、この第一連の意味するところは明確です。人生が続く限りうっとうしい夕べ、しらじらしい朝のように永遠に涙と苦痛はついてまわり、魂の方角(軌道)を定めていく。ならば最初から「彼女」ではなく「魂」と書けばいいではないか、と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、「うっとうしい夕べ、しらじらしい朝、」と具体的な1行から始まるこの詩篇では、抽象的な「魂」ではなく擬人化された「彼女」という柔らかな呼び方をすることで、より深い情感とイメージの広がりを備えている効果の妙を味わうべきでしょう。

彼女がはいろうと願う高い門を前にして
誰も彼女の誠実をあかしするものはない、
そして彼女の身のぬくもりと
ぬくもりを共にしようとさしのべられる手もない。

 先に述べたように「彼女」が「魂」の擬人化と思えば、第二連のテーマは「魂の孤独」です。魂が理想への高みを目指そうとしても、その資格たる魂の誠実さは他人頼りで証されるものではない。後半2行の「そして彼女の身のぬくもりと/ぬくもりを共にしようとさしのべられる手もない。」は、「魂」を「彼女」と擬人化したからこそ「孤独」を痛切に具体化し得た効果です。この無駄のない簡潔さと痛切さのためにも、「魂」ではなく「彼女」をこの詩篇の中心に置いたゲオルゲの手法は成功しています。

こうしてやがて彼女は騒音に呑みこまれてしまう、
そして騒音のなかでの劣悪な獲物を手離さずに 門から引き返すのだ。
そしてこれまでのようにきょうもまた、
近づいてきては彼女を救い出しそうな句を つぶやいている。

 最終連はこの詩篇全体の結論となっているために、第一連や第二連より難解さを感じさせます。「ものがなしい旅の」「涙と苦痛」(第一連)、「(彼女の誠実を)あかしするものはない」「さしのべられる手もない」(第二連)、孤独な「魂」の彷徨は「やがて騒音に呑みこまれてしまう」「そして騒音のなかでの劣悪な獲物を手離さずに (高み=理想への)門から引き返すのだ」。この「騒音」は魂の真の成長や充足を阻む世俗からの妨害、その場しのぎの生の営みを差すでしょう。そして「魂」はやむなく「(騒音のなかでの)劣悪な獲物」で一時的な満足を得るしかありません。最後の2行「そしてこれまでのようにきょうもまた、/近づいてきては彼女を救い出しそうな句を つぶやいている。」はドイツ語原文に当たれず、名訳とはいえ翻訳の限界を抱えた訳詩では妥当な解釈が難しい行で、「そしてこれまでのようにきょうもまた/近づいてきては彼女を救い出しそうな句をつぶやいている」の主語が不明です。「彼女」自身が自分への慰めのために「(自分自身を)救い出しそうな句」をつぶやいているのか、「彼女(魂)」に向かってこれまでの詩句に現れてきた、「魂」を憂鬱にさせるものがかろうじて明日の希望を囁いているのか、訳詩では判断ができません。後者であれば「彼女を救い出しそうな句をつぶやいている」の主語は、「うっとうしい夕べ、しらじらしい朝」(第一連)や「彼女の身のぬくもりと/ぬくもりを共にしようとさしのべられる手(もない)」(第二連)、「騒音のなかでの劣悪な獲物」(第三連)のいずれもが、この訳詩からは候補に上げられるからです。しかしこの4行三連の詩篇ではゲオルゲは一連ごとに完結した構成を取っていると思われるので、第一連や第二連で示された語句が第三連末尾の主語をなすとは無理があるでしょう。手塚富雄氏の名訳に異を立てるのではありませんが、おそらく原文の構文では末尾2行の「彼女」は受動態で、「そしてこれまでのようにきょうもまた、/彼女を救い出しそうな句が近づいてきては 彼女にささやきかける」となり、主語は、この最終行で(それまで魂の停滞の原因として暗示され)初めて現れた「彼女を救い出しそうな句」そのものでしょう。だとしたらこの詩は未知の認識を予期する希望で結ばれているのか、希望を抱きつつ混迷状態で停滞している魂の嘆きを語っているのか、どちらとも解釈できるように終っています。本来日本の詩人によって書かれた日本語詩でもこうした圧縮表現による解釈の多義性は起こるので、ゲオルゲのこの詩篇などまだ明快な方ですが、詩を知るにはまず読み巧みにならなければ詩と対峙することはできないと思わせられる一篇でもあります。正面から立ち向かわなければ、詩を読むことも書くこともできません。