清岡卓行「思い出してはいけない」(詩集『日常』昭和37年より) | 人生は野菜スープ~アエリエルのブログ、または午前0時&午後3時毎日更新の男

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元職・雑誌フリーライター。バツイチ独身。午前0時か午後3時に定期更新。主な内容は軽音楽(ジャズ、ロック)、文学(現代詩)の紹介・感想文です。ブロガーならぬ一介の閑人にて無内容・無知ご容赦ください。

清岡卓行 (1922~2006)

 思い出してはいけない
 清岡卓行

ぼくはどうにも 自分の
名前が思い出せないのだった。
そんなに遠い夢の中の廃墟。
そのほとりには
傷ついた動物の形をした森があり
ぼくは日かげを求めて坐り
きみは日なたを好んで坐った。
きみを見たときから始まった
ぼくの孤独に
世界は はげしく
破片ばかりを投げ込もうとしていた。
そのとき ふと吹き抜けて行った
競馬場の砂のように埃っぽく
見知らぬ犯罪のように生臭い
季節はずれの夢。
それともそれは 秋であったか?
風に運ばれながらぼくの心は歌っていた
--もう 愛してしまった と。

 それは今日までつづいている
 きみもどうやら 自分の
 名前が思い出せないのだ。

(詩集『日常』昭和37年/1962年より)
 詩集を買っておいて良かったな、と思うのは買ってすぐ通読、または繙読した時よりふと思い出して読み返し、見落としていた詩篇にはっとする時です。この思潮社の「現代詩文庫」の清岡卓行の巻は昭和44年(1969年)刊行、学生時代に古本屋で100円で購入しましたが、折に触れて読み返すことの多い選詩集(第一詩集『氷った焔』昭和34年/1959年、第二詩集『日常』昭和37年/1962年、第三詩集『四季のスケッチ』昭和41年/1966年からほぼ全編を収録)ながら、詩人37歳の時の名高い第一詩集『氷った焔』収録の名作にもっぱら気を取られ、第二詩集『日常』、第三詩集『四季のスケッチ』はこれまであまり目をとめませんでした。清岡卓行は戦時下に大学在学中からのちに入水自殺により夭逝する年少の親友・原口統三(遺著『二十歳のエチュード』昭和23年/1948年、1927~1946)、橋本一明(1927~1969)、中村稔(1927~)らと共に詩作を発表しており、第一詩集『氷った焔』は詩人37歳の時点で20年間もの詩作を集成したいわば自選版全詩集とも言えるもので、それだけに著者の代表作となった濃密な詩篇が並びます。一見ぐっと平易になった第二詩集や第三詩集は第一詩集から3~4年置きに刊行されていますから、密度において第一詩集より淡く、第一詩集ほどの緊張感は薄いのはごく自然な成り行きでしょう。しかし第二詩集『日常』の巻頭詩「思い出してはいけない」は、改めて読むと40代にさしかかった作者ならではの深みのある、人生経験の裏打ちを感じさせる佳作です。

 現代詩がわからない、という読者にもこの「思い出してはいけない」はそう難解ではないと思います。一読しただけでもこの詩は恋愛詩篇で(「--もう 愛してしまった と。」)、第一詩集『氷った焔』の名篇「石膏」(「ああ/きみに肉体があるとはふしぎだ」)の延長にあります。また「そんなに遠い夢の中の廃墟」「そのほとりには/傷ついた動物の形をした森があり」「競馬場の砂のように埃っぽく/見知らぬ犯罪のように生臭い/季節はずれの夢」といった暗喩も象徴詩人としてのランボーやシュルレアリスムに学んだ喩法で、やはり「石膏」の「氷りつくように白い裸像が/ぼくの夢に吊るされていた」「石膏の夢をやぶる血の洪水/針の尖で鏡を突き刺す さわやかなその腐臭」「石膏の均整をおかす焔の循環/獣の舌で星を舐め取る きよらかなその時涙」(これらはいずれも処女の恋人との初夜の暗喩です)ほど緊張感と高揚感による難解さはなく、「思い出してはいけない」では自然に練れた暗喩に変化していますが、この詩の肝は書き出しの「ぼくはどうにも 自分の/名前が思い出せないのだった」と、また詩篇の終りに1字下げで「それは今日までつづいている/きみもどうやら 自分の/名前が思い出せないのだ」と結ばれる、愛への没入による忘失感覚にあり、それはむしろ詩篇中間部の決定的な4行「きみを見たときから始まった/ぼくの孤独に/世界は はげしく/破片ばかりを投げ込もうとしていた」ではっきりと語られた「孤独」にテーマが集約されています。

 それはボズ・スキャッグスの大ヒット・アルバム『シルク・ディグリーズ (Silk Degrees)』(Columbia, 1976.3, US#2)収録のバラード、「ウィアー・オール・アローン (We're All Alone)」を引き合いに出すと分かりやすく、シングルB面曲としてもリリースされたこの曲は当初「二人だけ」という邦題がつけられていました。タイトルだけの文法解釈ではこの邦題が正しく、恋に落ちた男女が「(ぼくたちは世界に)二人きり」という意味での「We're All Alone」です。しかし翌1977年にリタ・クーリッジがカヴァ-して全米7位に大ヒットさせたヴァージョンは、日本盤シングルでは「みんな一人ぼっち」という邦題に変えられました。現在は原題の片仮名読みの「ウィアー・オール・アローン」に統一されていますが、作者のボズ・スキャッグス自身が前後の歌詞の文脈から「(恋人たち)二人だけ」と「(誰もが)ひとりぼっち(だからこそ愛を求める)」のダブル・ミーニングの意図があったと明かしています。没入的な恋愛は人を生まれ変わらせるものですが、それは相手との二人きりの感覚とともに、否応なしに自分一人きりの孤独を意識させるものです。甘美なボス・スキャッグス作のバラード「ウィアー・オール・アローン」より、清岡卓行のたった21行の詩篇「思い出してはいけない」は、のっぴきならない決意(「(思い出しては)いけない」)と鋭敏な内省的自意識を通し、むしろ最愛のパートナーを得てなお孤独を意識せざるを得ない繊細な感性において読者の胸に刺さる詩篇です。動機としての恋愛感情は詩の不純物と考える筆者はこの詩が嫌いです。清岡卓行の恋愛詩はどこか力んだ屈折があり、愛を人生における投機的な契機とする発想(この詩人の生業は、大学在学中から40代までの15年間プロ野球連盟事務局日程編成員でした)を感じます。しかしこの「思い出してはいけない」の訴求力と見事な出来の前には、好きも嫌いもなく胸を打たれるのを認めずにはいられません。