西脇順三郎「宝石の眠り」「まさかり」 | 人生は野菜スープ~アエリエルのブログ、または午前0時&午後3時毎日更新の男

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元職・雑誌フリーライター。バツイチ独身。午前0時か午後3時に定期更新。主な内容は軽音楽(ジャズ、ロック)、文学(現代詩)の紹介・感想文です。ブロガーならぬ一介の閑人にて無内容・無知ご容赦ください。

西脇順三郎(1894~1982)
 西脇順三郎

永遠の
果てしない野に
夢みる
睡蓮よ
現在に
ねざめるな
宝石の限りない
眠りのように

(『西脇順三郎全詩集』筑摩書房・昭和38年/1963年3月刊収録、書き下ろし未刊詩集『宝石の眠り』より)

 たった8行、短い行は3文字、長い行でも7文字。散文形式に表記を変えれば、

永遠の、果てしない野に、夢みる睡蓮よ。現在にねざめるな。宝石の限りない眠りのように。

 --のたった3パラグラフ。しかしこれはなんという詩篇でしょう。西脇順三郎をコンスタンディノス・カヴァフィス(ギリシャ、1863~1933)、ウォレス・スティーヴンズ(アメリカ、1879~1955)、ジュゼッペ・ウンガレッティ(イタリア、1888~1970)と並ぶ20世紀最高の詩人とはよく言ったもので、ふっと漏らした溜め息のようなこんな短詩でも一語の無駄も余分な抒情も置き換えも利かないイメージの広がりには、詩集のページをめくる手が止まります。短歌はともかく俳句であれば「永遠の/果てしない野に」は重複表現(「永遠」「果てしない」)でしょうが、「夢みる睡蓮」を導き出すには「果てしない野」が必要ですから、書き出しを詩篇全篇のモチーフとなる「永遠の」と打ち出すためにも、この「永遠の/果てしない野に」は口語自由詩ならではの技法として意味の重複以上に重要で効果的です。また西脇順三郎が「宝石」を換金価値の高い貴金属ではなく純粋な「美」、悠久に人智を越えて眠り続ける「野生の鉱物」としてメタファーに用いているのは明らかです。

 西脇順三郎は『全詩集』の前年の詩集『えてるにたす』(昭森社・昭和37年/1962年12月刊)のあとがき「エピローグ」で「室生犀星は『室生犀星全詩集』で「永遠」という言葉を捨てたと聞く。私はそれを拾つてこの詩人の霊のために「永遠」という言葉を出来るだけ多く使つて一文を草した。」と書いていますが、昭和37年3月に74歳で病没した室生犀星(1889~1962)が晩年の病床で編纂し、遺著となった『室生犀星全詩集』(筑摩書房・昭和37年2月刊)は『全詩集』を謳いながら既刊詩集の1/4程度しか採択されず、全篇(特に初期詩篇)に渡って改稿されていることで犀星の詩集に親しんできた読者を悩ませることになりました。室生犀星に師事した三好達治が中心となって編纂された『室生犀星全集』(全12巻・別巻2、新潮社・昭和39年/1964年~昭和43年/1968年)で三好達治は詩集はすべて初版型を採択し、遺作全詩集での改稿は採用しませんでしたが、『全詩集』で詩集ごと抹消された詩集は収録せず、小説も犀星自身が生前単行本化した作品しか収録しなかったので、のちに別の出版社から『室生犀星未刊行作品集』全6巻、『室生犀星童話全集』全3巻、『室生犀星全王朝物語』全2巻、初版詩集による決定版『室生犀星全詩集』全3巻と次々全集未収録作品集が出てようやく文業の全貌が復刻されました。西脇順三郎が指す「室生犀星は『室生犀星全詩集』で「永遠」という言葉を捨てたと聞く。」は犀星遺作の『室生犀星全詩集』を指すもので、西脇は萩原朔太郎を生涯の師と目していましたが、萩原に次いで萩原の親友・室生犀星の詩も賞賛して止みませんでした。

 西脇自身の詩篇で「宝石」を詠みこんだ詩と言えば、第一詩集『Ambarvalia』(椎の木社・昭和8年/1933年9月刊)の巻頭詩、

 天気

(覆された宝石)のやうな朝
何人か戸口にて誰かとささやく
それは神の生誕の日

 --がすぐに思い出されます。「(覆された宝石)」とカッコで括られているのはそれがキーツの「エンディミオン」の詩句の引用だからですが、第一詩集から30年を経た全詩集で表題作を巻末に置いた書き下ろし最新詩集『宝石の眠り』を収めたのは、第一詩集のこの巻頭詩との照応が念頭にあったものと思われます。

 詩篇「宝石の眠り」で「永遠の、果てしない野に、夢みる睡蓮よ。現在にねざめるな。宝石の限りない眠りのように。」と詠まれる「夢みる睡蓮」の「宝石の限りない眠り」は、アメリカのSF作家シオドア・スタージョン(1918~1985)の傑作ファンタジー長篇小説『夢みる宝石 (The Dreaming Jewels)』を連想させます。英文学者とはいえSF小説に興味のなかった西脇が原書1950年刊、日本語訳昭和44年(1969年)の同作を読んでいたとは思えませんが、蟻を食べる奇癖のある出生不明の少年の放浪を描き、その少年の正体が「未知の宝石の夢」から生まれた存在(作者によると宝石は蟻酸が好物だそうです)と判明するこの謎めいたファンタジーSFは、他のスタージョンの全作品同様およそ常人の発想を越えたものながら、西脇順三郎の「宝石の眠り」はたった8行・37文字でもっと平易に、スタージョンの傑作300ページに釣り合います。それが詩と小説の差といってはそれまでですし、スタニスラフ・レムをして「荒涼たるSF界にあって、唯一本物の幻視者」と呼ばしめたスタージョンはもっと温厚なクリフォード・シマック、陰鬱な後継者トマス・M・ディッシュと並んで、レイ・ブラッドベリ、P・K・ディック、ボリス・ヴィアンらとは比較にならない真のSF~ファンタジー小説の巨匠でしたが、日々のニュースや雑文、小説に疲れてふと詩を読むと、この西脇順三郎の「宝石の眠り」のような逸品の前では言葉を失うしかありません。

 この詩篇の冒頭にあえて重複表現が用いられている必然性は先に述べた通りですが、詩篇の中心をなす4行「夢みる/睡蓮よ」「現在に/めざめるな」の圧縮表現の見事さは圧巻で、命令でもあれば祈願でもある「現在に/めざめるな」は散文にパラフレーズすれば長々とした解釈になってしまうでしょう。しかも用いられている語彙や文法は平易な日常語で、「現在に/めざめるな」とやわらかにひらがなで書かれた「めざめるな」は「現在に/めざめるな」の解釈の多様性によって一気にイメージを広げます。冒頭の2行「永遠の/果てしない野に」と呼応して結句となる「宝石の限りない/眠りのように」の2行は、意味の上では「宝石の/限りない/眠りのように」(または「宝石の/限りない眠りの/ように」)と3行に分けることも可能ですし、「眠り」にかかる「眠りない」も冒頭の2行と着きすぎる重複表現ではありますが、「宝石の限りない/眠りのように」と「眠りない/眠りのように」とアンジャンブマン(行またぎ)の改行構文によって中4行(「夢みる/睡蓮よ/現在に/めざめるな」)で広がったイメージをぴたりと「宝石の眠り」に収斂させます。数え歳70歳、詩歴50年あまりの詩人の妙技として、とても青年詩人には書けない絶品で、30年前の名篇「天気」に感じられる力みや強引さは微塵もありません。さらにこの「宝石の眠り」は「天気」(「それは神の生誕の日」)同様、詩による詩論、理想的な詩のあり方を自己言及的に詠んだメタファー(メタ・ポエトリー)の詩と読むことも可能です。曖昧で暗示的すぎる詩語「永遠」を全詩集の改訂から削除した室生犀星に代わって、「永遠」を積極的に採り入れた成果がこの佳篇「宝石の眠り」では見事な達成を示しています。詩集『宝石の眠り』ではやはり「永遠」を詠んだこんな詩もあります。真の詩人、名人の妙技とはこれほどのものかと舌を巻くしかありません。

 まさかり
 
夏の正午
キハダの大木の下を通つて
左へ曲つて
マツバボタンの咲く石垣について
寺の前を過ぎて
小さな坂を右へ下りて行つた
苦しむ人々の村を通り
一軒の家から
ディラン・トマスに似ている
若い男が出て来た
私の前を歩いて行つた
ランニングを着て下駄をはいて
右へ横切つた
近所の知り合いの家に
立ち寄つた
「ここの衆
まさかりを貸してくんねえか」
永遠

(『西脇順三郎全詩集』筑摩書房・昭和38年/1963年3月刊収録、書き下ろし未刊詩集『宝石の眠り』より)