高橋新吉「戯言集」定本全詩集版(昭和47年/1972年)・前編 | 人生は野菜スープ~アエリエルのブログ、または午前0時&午後3時毎日更新の男

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元職・雑誌フリーライター。バツイチ独身。午前0時か午後3時に定期更新。主な内容は軽音楽(ジャズ、ロック)、文学(現代詩)の紹介・感想文です。ブロガーならぬ一介の閑人にて無内容・無知ご容赦ください。

高橋新吉(明治34年/1904年)1月28日~
昭和62年/1987年6月5日没)
『全詩集大成・現代日本詩人全集』(昭和29年/1954年)
肖像写真、53歳
 これまでも高橋新吉(1901-1987)の連作長篇詩「戯言集」を、昭和9年(1934年)刊の初版型、最初の全詩集『高橋新吉詩集(創元選書版)』(昭和27年/1952年)の改訂をさらに改訂した創元社『全詩集大成・現代日本詩人全集』の高橋新吉全詩集版(昭和29年/1954年)と改訂型を追ってきましたが、今回・次回は高橋新吉71歳の昭和47年(1972年)に既刊詩集15冊・拾遺詩集・未刊詩集をまとめた『定本高橋新吉全詩集』収録の再々改訂型「戯言集」をご紹介します。同じ詩(連作長篇詩)を三通りの異版で読むのは一般的にはよほどの物好きのすることかもしれませんが、詩というのは改訂されるたびに異なる読み方があるのです。一人の歌手が同じレパートリーを歌っても歌うたびに異なるのと同じです。

 高橋はさらに逝去5年前の全集『高橋新吉全集』(昭和57年/1982年・全4巻、青土社刊)の第1巻の全詩集で既刊詩集20冊・拾遺詩集・未刊詩集の総計2000篇あまりをまとめていますが、『高橋新吉全集』では『詩文・戯言集』は初版型をそのまま復刻収録しています。高橋新吉がどのような詩人で、詩集『戯言集』がどのような背景から書かれたかは旧記事で詳細に触れました。これは27歳から29歳までの三年間を統合失調症治療のために窓すらない二畳の座敷牢に隔離監禁療法を受けた高橋の、精神疾患患者自身による監禁療法の記録という点でも世界的に類を見ない条件下で書かれた長篇詩です。今回は連作全67篇の前半をご紹介します。 


『詩文・戯言集』
昭和9年(1934年)3月15日・読書新聞社刊
『高橋新吉詩集(創元選書版)』
昭和27年(1952年)2月15日・創元社刊
『全詩集大成・現代日本詩人全集』第12巻
昭和29年(1954年)4月15日・創元社刊
『定本高橋新吉全詩集』
昭和47年(1972年)10月15日・立風書房刊


 戯言集
 (立風書房『定本高橋新吉全詩集』版)
 高橋新吉

 

生が唯一のものである。
生とは死から発生した黴に過ぎないのであつても、

 

君のやうにあまりに生きる事に熱くなるな、
風が吹いてゐるやうに生きられないか。

 

生きてゐる事は滑稽な事だぞ、馬鹿者共
生きてゐる事は滑稽な事だぞ、馬鹿者共
生きてゐる事は滑稽な事だぞ、馬鹿者共
生きてゐる事は滑稽な事だ。

 

私は掘出された刹那の芋の如き存在でありたい。

 

悲しみを忘れる為の労働、どんな仕事でも好い。

 

私は青い星を見た。その星は青かつた。
其の光りを私は竹藪の竹の根の青い石にも見た。

 

私は淋しくて、生きてよう居らん。
此の寂寥に私は堪える事が出来ない。

 

私はあなたと話しがしたいのです。
話をする事、此の世の中に此れ以上の快楽はないと私は思つてゐる。

 

精も根も尽き果て、私はもう死を待つばかりである。
如何に死がつまらないものであり、退屈なものであるかを私は知りぬいてゐる。
だのに生きてゐる事は死以上に退屈であり、つまらない事のやうにも思ふ。

 

雨が今日は降つてゐる。
私は死んで行つた多くの人達の事を思つてゐる。
雨の水滴の一つ一つに、それ等の人の顔が輝いては土に吸ひ込まれてゐると想像する。

 十一

私は花を見ても美しいとは思はない。
私は只人間が恋しい。
美しい心を持つた人、美しい肉体を持つた人を私は痛切に恋したうてゐる。
私が思ふのに美しい肉体の人でないと美しい心を持つてゐる筈はない。
しかし美しいとか、きたないとか、人各々主観だ。
それで私は根も葉も花も美しいと思つた事はない。

 十二

此れから後の私の生活、それもやはり今までの様な苦の連続であらうか。
他人を食ひ物にして生きようとする心、此れが私にもあなたにもある。
そして私は今あなたの食ひ物になつてゐる。

 十三

手足を動かさないで凝乎してゐるからくだらぬ事を考へるのだ。
それで手足を動かしてまめ\/しく働け、
働くものには罪悪と思怨が与へられる。

 十四

棄てられし白い紙函の悲哀を子供は知らない。

 十五

此れほどの悲哀が私を襲ひ、私を打ちのめし、日毎夜毎に私をくさらかしてゐる。
此れほどの悲哀が、夢にもあらうとは思ひ及ばなかつた事だのに。

 十六

子供を養ひ育てる事、此れは誠に面白い道楽だ。
此れ以上に面白い道楽が此の世にあらうとは思へない。

 十七

私よりも困難な忍苦に充ちた生活を生きた人間があるであらうかと誰しも思ふであらう。
本当にそれは嘘ではないのだ。
事実だ。
だが楽な生活、朗らかな生活、快ろよい生活も困難な忍苦に充ちた生活と別に違つてはゐないのだ。

 十八

涙を流して喜びあふ事、此れ以外に世の中に何がある。
或は涙を流して悲しみあふ事でも好い。
私は涙の壺の中に居る。
そして一人で麦藁が焼けるやうに身を燃やして泣いてゐるのだ。

 十九

生まれたばかりに私は生きてゆかねばならない。
生まれなかつた方がどれ丈よかつたか知れない。
生きてゐる事は叩かれる事であり、圧し潰される事であり、馬鹿にされる事である。

 二十

生きてゐる事は死んでゐる事よりも不幸な事だ。
それで君は今生きてゐる。
それで此れより以上の不幸が君に起りつこない。
生きてゐる事は最大不幸だ。

 二十一

私はあまりに甚い無理な生活をしつゞけてゐる。
目はかすみ手足は痺れてゐるのだ。
私は時に斯う思ふ事がある。
二つの目をくり抜いて、そこへ投げて鼠に食はせてやりたいものだ。
すると盲目になつた私を恐れるものは無くなるであらう。
それで以て私は湯に入つたり、杖をついてでも道を歩いたりする事も出来る。
日光に浴する事も、人と話しをする事も許されるであらうと。
又両手を切断してゞもかまはない。
今の此の二畳敷内の牢生活よりは恵まれた報ひられた生活を営む事が出来るであらうと。

 二十二

埋められた棺桶の中で目を覚ました男、其の男は私の経験した心を嘗めたであらう。
そして死んで行つたであらう。私も此の牢の中で朽ち果つるであらうか。
此の牢の中で、今夜にも死ぬかも知れない。
しかし死なぬかも知れぬ。
それで私は此の牢の中で死にたくないが故に、鉛筆の屑をなめながら之を書く。
トーシビの灯をかき抱くやうにして、私は自分の生命をかき抱いてゐる。
だが此んな事を書く事は、私を此の牢から出す障害と却つてなるかも知れない。
自分の頭が信ぜられぬ程悲惨な事があらうか。
自分で自分を疑はねばならない。

 二十三

いくらあせつても、もがいても此の二畳敷の牢の中より、一歩も外へ足を出す事も、手を出す事も出来ない。
此の苦しみを三年間の間一日も例外なしに、憤懣と汚辱とで精神を摩滅し、骨をケズル思ひで過ごした事は、私の将来に何を持ち来すと云ふのか。
早死にと悔恨以外にはあるまい。

 二十四

私は父の悲痛なさびしさうな顔を未だに忘れる事が出来ない、お父さん許して下さい。
私が生まれ出でた事、それはお父さんにとつては死を予定した出来事だつたのです。

 二十五

殺しあふ事も憎みあふ事も、みんなさびしいからなんだ。
誰もかもみんなじつとして居られないのだ。
みんなは一つの塊りなんだ。
それが割れたり壊れたりするんだ。

 二十六

それで私は実につらい口惜しい。
それで私は実に恐い情けない。
それで私は実に生きて居りたいのだ。

 二十七

私は死を考へると、まだたまらない気になる。
死ぬのが何うしても厭なのである。
しかし之は私の狂つた頭丈の考へる事であつて、私の肉体は日々死を迎えるに急がしく、日々腐りつゝあり、死に達せんとする準備を営みつゝある。

 二十八

たとへ何んなに穢いまづいめしでも三度三度缼かさずに食べられる事は重要な原因だ。
此れは人間同志が限りなく感謝しあつて好い事だ。

 二十九

人間は自分の死を惜しまれ、なげかれ、とてもたまらない事のやうに思はれるやうな人間にならなければならない。

 三十

私は今何と言ふ苦しい気持で生きてゐるかを誰も知らない。
誰にもわかつて貰へない事だ。
私は今何を考へ、何を夢みて生きてゐるかを誰にも知つて貰ふ事の出来ない事だ。
私は事実何も考へてもゐなければ、何事も夢見てもゐない。

 三十一

人間は苦労をしなければならない。
艱難に堪えなければならない。
さうでないとぼや\/と死んで了ふ事になるのだ。

 三十二

誰がいつどういふ悪るい事をするか、それはわからない。
だから悪るい事を人にせれないやうな立場に身を置きたいものである。

 三十三

あなたの考へは凡て死の恐怖から出発してゐる。
だから正しいとは言へない。
私は何も外に考へて居らない。
此の牢の中から出て行きたいのだ。

 三十四

あまりに何事も大切に取扱ひ、思ひ過すな、何事も、自分の死も、子供の死も、兄弟の死も、親の死も、それ等の事を蠅のヒツタ糞のやうに、又は曇つた日の音楽のやうに考へろ。

 三十五

生きてゐて下さい。
命を粗末にとりあつかはないで、とは誰しも思つてゐる事だ。
だが他人の命を粗末にないがしろにしないで生きてゐる人は一人も居ない。
又生きられるものでもない。
我々の智恵も力も凡ての本能も、只自己擁護と永続とに役立ち、分別される丈のものででもあるやうだ。

 三十六

死に打つかつてゆく態度、之は好くない。
死とよそ\/しくするにも及ばないが、死と常にあまりに接近し過ぎる事も好くない。
死に圧倒されて、阿呆になつた男の言つた事だ。
死とは私のものぢやない。
貴君のものだ。

 三十七

私は盲目も同然である。
四方は板壁にふさがれた牢屋の中に居る。

(以下次回)

(旧記事を手直しし、再掲載しました。)