音楽家の地位 - 026 | 遠い夏に想いを

遠い夏に想いを

アメリカ留学、直後の72年の夏に3ヶ月間親子でパリに滞在。その後、思い出を求めて度々訪欧。

 ミラベル宮殿の左手には2階へ通じる装飾豊かな階段がある。演奏会などにも使われる宮殿広間の入り口だ。この2階にはモーツアルトも子供の頃から青年時代にかけて良く来たのであろう。大司教のためにセレナードやデヴェルティメントを演奏するのに、この階段を上っていったことだろう。


 ことのほか、音楽には、というよりもドイツの音楽家には、冷たい大司教だった。全てイタリア趣味であった。ローマカトリックの司教だから仕方がないのかも知れない。しかも、時代がそのように動いていたから、しようがないと言えばしようがないのだろう。小国の浮沈に気を遣わなければならないコロレード大司教にとってモーツアルトなどどうでも良かったであろう。


 ウイーンでもハプスブルグ家はモーツアルトに対して表面上は取り繕っていたものの、裏では「物乞い」扱いで、マリア・テレジアの息のかかった地では、召し抱えるのはご法度であった。当時のオーストリアは大帝国で東はハンガリー・チェコ、イタリア北部(南部もスペインの支配)、スペイン、スペイン植民地の南米まで、イギリス、フランス、北欧を除くヨーロッパ諸国を支配下に置いていた。


 これは子供の頃に西方の大旅行やウィーンに度々旅行していた父のレオポルドのせいかも知れない。モーツアルトを売り込むために結構あくどく動き廻っていたらしい。


 当時の音楽家の地位などというものは、釜炊き女とさして変わらない時代だし、実際厨房の女たちと昼食も取らされている。宮仕えをしている限りどうにもなかったであろう。ウィーンに移ってから若いベートベンが彼の元に訪れて来るが、モーツアルトが「作曲が遅い」とベートーベンに言ったらしい。宮廷に仕える身としては、大司教に要求されたら、料理人のよに直ぐ仕上げなきゃならない宿命にあったのだろう。芸術家としとの認識はベートーベンからだ。身分は日本のぺいぺいサリーマンとたいして変わりないのだ。


遠い夏に想いを-旧市街

 庭園を散策しながら正面から出る。雨で路面が濡れて、街全体が霞んで見える。右に折れて、ザルツァハ川に出る。マカルト橋のこちら側から眺める旧市街の風景は一段と視界が開け筆舌に尽くせないほどに美しい。


遠い夏に想いを-旧市街2

街を一回りしてホテルへ戻った。


 Viosan の「ミネソタの遠い日々」
1970年に私たち夫婦・子供連れでミネソタ大学へ留学した記録のホームページにもどうぞ