城の屋上をぶらついてみる。といっても時間が時間だからみな閉まっている。
旧市街に向けた古い大砲がある。ここが単なる城ではなく、防衛のための城砦であったことが判る。
まだ時間が早いと思ったが、コンサ―ト会場へ行ってみる。ケーブルカーを下りてから、暗くて狭い階段をかなり登った。更に、会場までは坂道を登らなければならない。扉があるが閉まっている。彫刻が飾ってある。大司教のようだが、誰なのか、古いものかよく判らない。

会場は城の最上階だ。待合室はガラーンとして洞窟といった雰囲気だ。まだ、3~4人がいるだけだ。壁は暗い灰色で電灯の明かりも薄暗い感じだ。壁に沿ってベンチがあり、座ろうとすると、アメリカ人の夫婦が声をかけて来た。
「500シリング持ていませんか。ドイツマルクは持ているのですが。もしよければ交換してくれませんか。そこでお土産品を買おうと思ったのですが、ドイツマルクでは駄目だって言うものだから」
ご主人は年の頃が65才くらいで、おおらかで明るい顔をしている。奥さんは白髪が交じった栗毛で、活発で典型的なアメリカの主婦といった感じ。
「ウイーンの空港でドイツマルクをオーストリアシリングに交換したっけ。率を覚えている?」
どうせオーストリアに戻ってくるのだからと、私がトイレに行っている間にノッコに両替を頼んでおいたのだ。
「覚えていないわ」
「うーん、そうだろうね。率は....えーと」
考えていると、主人が割り込んだ。
「お金のことかね。良いんだよ。私達も交換率を知らないしね」
彼はにっこりと笑った。ユーロ導入直前で、ユーロならそんな心配はせずに済んだのにと、今は思ってしまう。
「ところで、英語が達者だが何処で覚えたのかね」
「昔、アメリカに住んでいました。ミネソタにね」
「えっ、ミネソタかね。私達はウィスコンシンから来たんだよ」
「ミネソタは何しに。いつ頃行ったの」
今度は奥さんが訊ねた。
「大学院に行ってました。もう30年以上も前の1970年から2年間」
「我々はウィスコンシン大学でね。マディソンの」
「実は、ウィスコンシン大学からもOKが来て、行きたかったのですが、なにせ、授業料がミネソタの倍でね、諦らめました」
「マディソンは綺麗なとこだよ」
「ええ、メンドータ湖の傍で、なかなか風光明媚なところですよね。シカゴの友人がメモリアル・デイに招待してくれたので、途中、マディソンに寄ってみました。今でもウィスコンシンに住んでいるのですか」
「今でもさ、良いところだからね」
「そうですね。食べ物はうまいし、何といてもチーズの国(Dairy country)ですからね」
開演までには時間があったから、話しに花が咲いた。彼らはベンチを離れて再び売り場へ行った。ほどなく戻ってきて「カードが使えたよ」と言いながら、ウインクして会場へ消えて行った。旅行は偶然こうゆう人達に出会う機会を与えてくれるから楽しい。
Viosan の「ミネソタの遠い日々」
1970年に私たち夫婦・子供連れでミネソタ大学へ留学した記録のホームページにもどうぞ