今は亡き英国男の思い出 - 003 | 遠い夏に想いを

遠い夏に想いを

アメリカ留学、直後の72年の夏に3ヶ月間親子でパリに滞在。その後、思い出を求めて度々訪欧。

 東京のパブは花盛りだ。数々の店がイギリス風にしたりアイリッシュ風にしたりして営業している。だが、東京でパブの老舗的な存在といえば、今でも店を開いている東京四谷の"The Rising Sun"だろう。 1974年に開店したパブだから、36年近く営業している。創業者はイギリス人のジェレミー・ハガティーという男。


 先月の末に、新宿の医大で耳の外科手術をしたノッコの妹の見舞にいった帰りに、"The Rising Sun"に寄ってみることにした。ノッコの姉と従兄弟夫婦の5人。


遠い夏に想いを-Alice  何せジェリーと出会ったのは1968年頃。日本に来たときはテキサスの裕福な家の娘で、アリスという女の子と同棲を始めたばかりだった。彼は柔道をやるんだと言って講道館に通っていたと思う。東中野でアパートが近く、彼等は毎晩のように我々のアパートに遊びに来ていた。(これについては、同時に公開している「ミネソタの遠い日々」のホームページを参照してください。このブログの本文の最後の項をクリックすると出てきます)。当時のアリスの写真は残っているのだが、どうしてもジェリーの写真が見当たらない。確か、雪の日に赤ん坊のチャオとノッコとジェリーの3人で撮った写真なのだが。若い頃のジェリーは英国男としては華奢だが、明るくて爽やかな青年だった。


 ある時、アリスの父がテキサスから娘の様子を伺いに日本に来ることになった。同棲していることは親に隠していた。アパートから男っ気を無くするために、ジェリーの私物を全て我々のアパートに運んで、アリスの父がホテルに帰るまでジェリーは我々の狭いアパートにいた。数々ある思い出のなかで、そんな遠い記憶がよみがえって来る。


 私がアメリカへ留学するために、家族でミネソタへ移った1970年、アリスはアメリカに帰国していたのだが、ジェリーの消息は不明のままだった。帰国して、1975年頃ノッコが新宿の駅でパッタリとジェリーに出会った。四谷でThe Rising Sun というパブを開いているから一度来ないかと言われて、2人で店に行った。今も店は当時のスタイルそのままで、まさにイギリスの田舎のパブという感じだ。


「ジェリーは私達のこと判るかしら?」

「もし判らなかったら、最初は、誰ーれだ?と訊いてみるか」
「お互いに歳をとっているし、35年ぶりだから判らないと思うわよ」
「でも、ノッコとヴィオだよと言えばすぐに判るさ」
などと地下鉄のなかで話していた。


 私は酒が弱い(と言うり、酒を受け付けつけないタイプ)ので、レストランでハウスワインを飲むことはあるが、居酒屋、割烹、パブなどには行かない。家で時々ワインを嗜む程度である。だから、35年間も行かなかった。


遠い夏に想いを-The Sun  店に入った。赤みがかったローズウッドの内装に昔の記憶がよみがえった。店には老年のアメリカ人夫婦(と言っても我々より若い)が静かにビールを飲んでいる。カウンターの中には若い女の子が一人働いていた。


 声をかけた。どうも日本語がおかしい。中国系の女性らしい。確か、ジェリーの奥さんも横浜の中国系の日本人だったと思う。
「オーナーのジェリーさんはいるの?」
「え?」
「ジェリー・ハガティーさん」
「ジェリーさんなら死んだよ」
「え?!」
私もノッコも飛び上がらんばかりに驚いた。
「いつ?」
「10年くらい前」
女の子は淡々と話している。
これ以上細かい話を訊いても、この子では判らないだろう。
「奥さんは?」
「ずっと昔にイギリスに行ったきりよ」
女の子は相変わらず淡々と話す。


 柔道着のジェリーの白黒の写真が1枚壁の隅に掛かっている。イギリス人特有の鼻にかるピッチの高い声でジェリーがニコニコと語りかけてくるような気がした、「アハハ、会いたかったよ。残念だな。でもそっちが来るのが遅すぎたよ」と言っているようだ。生きていれば65歳くらいだろう。10年前というのは、余りに早い死だ。


遠い夏に想いを-American couple  私は力が抜けて席にドサッと座り込んだ。暫らくして、みんなで「ギネス」を注文。そこへ、アメリカ人の夫婦がキャノンのデジカメをとり出して、一枚撮ってくれという。快く撮ってあげると、お返しに私のデジカメで我々皆を撮ってくれた。従兄弟も長年シカゴに駐在していたから英語は話せる。この老夫婦は本土からグアムに移住し生活しているという、東アジアを旅行中で、この店は観光案内で知ったらしい。奥さんは若い頃美人だっただろうなあというプラチナ・ブロンドの女性で、昔はアラスカで学校の先生をしていたという。


遠い夏に想いを-young men  暫らくすると、3~4人の外国の若者が入ってきた。部屋の隅でジャージに着替えている。ジェリーは柔道だったが、今はラグビーのチームの溜まり場になっている。周囲の壁にはたくさんのチームの写真が飾ってある。
「パーティーでもやるの?」
「そう、今日は我々のチームの仲間が集まって飲み会をやるのさ」
イギリスの田舎のパブみたいに、地域のスポーツ同好会の会合場所としての役割を果たしているようだ。


さあ、もうこの店を去るときだ。
ジェリーの思い出も遠くに過ぎ去った。悔しい気持でいっぱいだった。
そして、一人の短命な英国男へのレクイエムが心の中で鳴り響いていた。

 ミネソタの遠い日々 - New (ミネソタの企業パート2を掲載) -
1970年に私たち夫婦・子供連れでミネソタ大学へ留学した記録のホームページにもどうぞ