パブで夕食 - 002 | 遠い夏に想いを

遠い夏に想いを

アメリカ留学、直後の72年の夏に3ヶ月間親子でパリに滞在。その後、思い出を求めて度々訪欧。

 ロンドンの北にあるスタンステッド空港の近くでローカル道に入り、更に北上する。イギリスの田舎道は思ったより狭い。車がすれ違う際は、一瞬緊張する。どちらもスピードを落とさない。日本と同じ左側通行とはいえ、こうゆう道での運転は私にとって不向きだ。歳をとってから、ますます視力と反射神経がおとろえ、こうゆう運転が駄目になった。


 日が西に傾いてきた。チャールズはますますスピードを上げる。クレアに着く前に軽く夕食を取ろうと言う。暫く行って、道が交差する角にあるパブの前に車をとめた。地平線の空は明るく輝いているが、地上は闇が押し寄せている。電灯の明かりが妙に心を落ち着かせる。


遠い夏に想いを-local pub  ドアを押して店内に入った。夕暮れの静寂から、突然、話し声の渦の中に引きずり込まれた感じだ。パブの中は結構賑わっている。大半が中年の男達だが、ご婦人の姿も見える。ここのパブへはエセックスにいた頃にも時々来ていたらしく、バーテンや客の中に顔見知りの者がいるらしい。
「やあ、久しぶりだな」
チャールズに声をかけてくる。
我々も幾人かに紹介された。みな人懐っこい。


 カウンターに立ってビターを飲んでいると、2、3人の男達が店に入ってきて、チャールズを見つけ話しがはずむ。
「イギリスには時々来るのかね」
我々を見つけて話しかけてくる。
「90年にも来たけれど、今年はあの時より暑いみたいですね」
「1990年か、えーと、待てよ・・」と考え込んでいる。
90年は我々にとってイギリスを訪れた特別の年だが、彼等には普通の年にしか過ぎない。
「ああ、思い出したぞ。娘が高校を卒業した年だ。そうだあの年は春から雨が一滴も降らなかったね。今年も似たようなものだがね」


 イギリスのパブは「パブリック・ハウス」の略だが、初めてパブができた19世紀の中頃、一般大衆が出入りし、集まるところから、「パブ」と呼ばれるようになった。それ以前にもエール・ハウスや”レッド・ライオン・イン”などのようなイン(宿屋)でも17世紀に酒の免許をもって酒をだしていたから、パブに相当する場所は古くからあった。パブリックというと、何か役所がやっているように思うのは日本人だけだろう。イギリスには会員制のクラブが伝統的に存在する。しかし、一般民衆に開かれた場所、即ち誰でも出入りできるからパブリックになる。だから私立校でもパブリック・スクールである。日本の居酒屋と同じだが、男ばかりが集まるわけではない。今の大都会では女性も立ち飲み屋に来る時代だから、まさに、日本の居酒屋もパブになったようなものだ。


 パブはイギリスの社会に欠かせない。日本みたいに、会社の愚痴とか上司の批判とかの話ではなくて、コミュニティーの社交場のような役割を果している。アメリカの田舎でなら、カントリー・ハウスがその役割を果していると思うが。

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