ヴィヴァ・イタリア - 093 | 遠い夏に想いを

遠い夏に想いを

アメリカ留学、直後の72年の夏に3ヶ月間親子でパリに滞在。その後、思い出を求めて度々訪欧。

 アリタリア機の整備はかなりひどい。ポツンポツンと空席が目立つ。何のことはない、シートが壊れていて客が座れないのだ。昨年度の1996年はアリタリアにとっては最悪の経営状況で、1兆2千9百億リラという天文学的な赤字を出している。イタリア政府から2兆7千5百億リラの増資を受けているが、実質的にはこれでも駄目らしく、日本のどこかの航空会社と同じく半民半官の体質を露呈してしまった。整備が悪いのは椅子だけで、安全上に問題がなければよいのだが。


遠い夏に想いを-出発時間  まあー、チェックインのシートの案内といい(と言うのは、機内に入ると2人並んで座れる席だったのだ)、のんびりして大まかである。イギリスでなら「おおらかなものさ」と言いたくなるが、イタリアでは「出たら目だなー」とつい言葉に出てしまう。けれども、「Cappuccino, prego!」とスチュワーデスに笑顔でコーヒーを差しだされると、「Viva Italia! 」(イタリア、万歳!)と何故か叫びたくなる。


 ノッコの隣に一人旅の日本の女の子が座った。日本のブランド娘根性まる出しで、フェンディのモノグラムが一面に入ったこげ茶のパンツをはいている。こんな格好をしたフランス娘もイタリア娘も見たことがない。やや暫らくして、声をかけてきた。
「団体旅行の方かと思っていました。お2人で旅行でしたか」
「ええ・・・」
ノッコが返事をしている。
「私、団体旅行は大嫌いなものですら」
「そうなの・・・」
ノッコも適当に受け答えしている。
我々も若い頃は団体旅行が余り好きでなかった。だが、歳をとるにつれて、人とのつながりも旅のいいところだと思うようになった。


 イタリアという国は1861年に統一国家になるまで、都市国家としてばらばらで、イタリアという国は存在しなかった。既に統一国家であったスペインやオーストリアやフランスに立ち向かうこともできず、ミラノを中心に北部をオーストリアにナポリなどの南部はスペインに植民地化されてしまう。そして、ナポレオンが侵入し、イタリアを植民地とした。ナポレオンが没落してから、ガリバルディを中心として統一運動が起こり、イタリア王国が誕生する。現在は王制を廃止し、イタリア共和国となっている。都市国家のなごりから、昔の都市国家時代の意識が拭えず、いたって「おらが町」意識が強い。


 明治維新で近代化に変身したのとほぼ同じ時期にイタリアか誕生した。日本は中央集権国家として成り立っていたから、地方意識が薄い。イタリアでは南北問題があり、北部の人は南部をアフリカと同じだという。北部はオーストリアの植民地だたせいもあり、人種的には背が高く、目が青くて、色が白い。北部独立論が存在するという。ジョークではないかと思うが、そうでもないらしい。日本のように何でも東京という訳ではない。ローマといっても一地方都市としか考えていない。旅をしている限りでは、細かい裏側は推し量れないが、各地を廻ると何かその辺が分ってくるようだ。



 あ と 書 き


 この文は前作の『ヨーロッパ 1972年と1990年のロンドンとパリ』の続きとして綴ったものです。1972年にアメリカからの帰路パリに長期滞在し、帰国時にスイス、イタリア、ギリシャ、レバノンなどを旅行してきました。1990年にフィレンツェを旅行していすが、今回、1997年にイタリア北部を廻ってきたので続きを書いてみました。宗教や絵画や音楽などが溢れたお国柄であり、その都度勝手なことを書きましたがお許しください。
長い間ご一読いただきまして、誠に有難うございます。


 この後の旅行記は1995年に旅したイギリスのクレアという田舎町と画家コンスタブルの故郷であるサホーク州、さらにテムズ川上流とその他を綴りたいと思います。


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