危なく宿無し - 023 | 遠い夏に想いを

遠い夏に想いを

アメリカ留学、直後の72年の夏に3ヶ月間親子でパリに滞在。その後、思い出を求めて度々訪欧。

 当時の旅行は降り立った空港のインフォメーションでホテルを予約してもらっていたが、ヴェネツィアだけは夜遅く着くので、出発前にミラノの日本航空事務所でホテルを予約してもらった。10時頃の到着だから伝えておいてくれと言っておいたのに、「はい、了承しました」ばかりで、到着の時刻はホテルに伝わっていなかった。当時の日本航空は何をやらしても駄目な航空会社だった。


 8時半頃、マルコポーロ空港に着いた。空港の発着所から船に乗りサン・マルコ広場に着いたのは9時半頃だった。地図を片手に、ホテルへ急いだ。


遠い夏に想いを-セレニッシマ  ホテルに着くと、丸々と太って背丈の小さいおやじが出てきて言う。
「遅いし、ぜんぜん連絡がないからキャンセルしたよ」
「困ったな、これからホテルを捜すのは」
結局、日本航空が何も連絡していなかった。
「うーん、俺の部屋に一緒に泊まるかい」
「それは、ちょっと・・・、子供がいるし・・・」
チャオと一緒の3人連れだ。困った顔をしていると、結局、使用人の部屋を空けてやろうと言ってくれた。泊まるところは何とかなった。人のいいおやじさんだった。まるで昔のひなびた温泉旅館みたいだ。チャオには赤ん坊用のベットを急いで用意してもらたら、部屋の中は歩く隙間さえない。


 夜中になって、トントンとドアをたたく音がする。
「起きてるかい。今テレビで日本の女子バレーががんばっているぞ。よかったら見に来な」
おやじの声だ。

テレビなど部屋にない時代だから、家族が集まる部屋へ3人で行った。


 丁度、72年のミユヘン・オリンピックのさなかだった。日本のバレーチームは大いに頑張った。女子チームは「銀」を、男子は「金」を取った。今ではイタリアは強豪チームだが、当時はまだ日本の全盛時代だった。外国で日の丸が揚がる光景を見ると、何か誇りに感じろ。


 国旗と国歌の問題はいまだにくすぶっている。政府がとやかく口を挟むより、国際スポーツの場でどんどん日本の選手が活躍し、日の丸の旗を挙げるように国が助成金をだす方がましだ。かっての共産圏の国々が国策でやったようなことは必要ないが。日本のように島国で単一民族と思っている国で、多民族国家のアメリカのように国旗と国歌が国を統一し、愛国心を育てると信じるのとは訳が違う。

 ミネソタの遠い日々 - New -
1970年の夫婦子供連れでのミネソタ大学、留学記録にもどうぞ