当時の旅行は降り立った空港のインフォメーションでホテルを予約してもらっていたが、ヴェネツィアだけは夜遅く着くので、出発前にミラノの日本航空事務所でホテルを予約してもらった。10時頃の到着だから伝えておいてくれと言っておいたのに、「はい、了承しました」ばかりで、到着の時刻はホテルに伝わっていなかった。当時の日本航空は何をやらしても駄目な航空会社だった。
8時半頃、マルコポーロ空港に着いた。空港の発着所から船に乗りサン・マルコ広場に着いたのは9時半頃だった。地図を片手に、ホテルへ急いだ。
ホテルに着くと、丸々と太って背丈の小さいおやじが出てきて言う。
「遅いし、ぜんぜん連絡がないからキャンセルしたよ」
「困ったな、これからホテルを捜すのは」
結局、日本航空が何も連絡していなかった。
「うーん、俺の部屋に一緒に泊まるかい」
「それは、ちょっと・・・、子供がいるし・・・」
チャオと一緒の3人連れだ。困った顔をしていると、結局、使用人の部屋を空けてやろうと言ってくれた。泊まるところは何とかなった。人のいいおやじさんだった。まるで昔のひなびた温泉旅館みたいだ。チャオには赤ん坊用のベットを急いで用意してもらたら、部屋の中は歩く隙間さえない。
夜中になって、トントンとドアをたたく音がする。
「起きてるかい。今テレビで日本の女子バレーががんばっているぞ。よかったら見に来な」
おやじの声だ。
テレビなど部屋にない時代だから、家族が集まる部屋へ3人で行った。
丁度、72年のミユヘン・オリンピックのさなかだった。日本のバレーチームは大いに頑張った。女子チームは「銀」を、男子は「金」を取った。今ではイタリアは強豪チームだが、当時はまだ日本の全盛時代だった。外国で日の丸が揚がる光景を見ると、何か誇りに感じろ。
国旗と国歌の問題はいまだにくすぶっている。政府がとやかく口を挟むより、国際スポーツの場でどんどん日本の選手が活躍し、日の丸の旗を挙げるように国が助成金をだす方がましだ。かっての共産圏の国々が国策でやったようなことは必要ないが。日本のように島国で単一民族と思っている国で、多民族国家のアメリカのように国旗と国歌が国を統一し、愛国心を育てると信じるのとは訳が違う。
ミネソタの遠い日々
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