ポン・デザール橋 - 089 | 遠い夏に想いを

遠い夏に想いを

アメリカ留学、直後の72年の夏に3ヶ月間親子でパリに滞在。その後、思い出を求めて度々訪欧。

 ポン・ヌフを左岸に抜けて、ポン・デザール橋を渡る。その昔、パリに来て最初に渡った橋がポン・デザールで、左岸から右岸へ歩いていった。それをもう一度やろうというのだから少々度が過ぎる。今の橋は架け替えられているみたいだ。当時は、渡るのが恐いほどオンボロの橋で幅が極端に狭かった。


遠い夏に想いを-ポンデザール  今は橋の中央に鉢植えの花を置いたり、ベンチが据え付けられたりしてゆったりとしている。車道がなくて歩道だけだから、他の橋より広いくらいだ。隅田川に架かる歩行者用の橋などに比べ、板張りなので遥かに人に優しく歩きやすい。カルーセル橋を通っても行けるが、やはりルーブルへの玄関橋はこのポン・デザールしかない。


 橋の建設は200年前だが、鉄骨の橋である。鉄を使ったのはエッフェル塔より早い。そして『醜い姿』に対する悪評もエッフェル塔より先だ。当時セーヌ河のこの辺に架かる橋はポン・ヌフとロワイヤル橋しかなかったらしい。美術学校とルーブルをつないでポン・デザールと名づけた。今時、鉄と板だけの橋しか作れない訳ではないのに、この板張りの橋を作り続けて『芸術橋』を守り通すあたり、いかにもパリらしいと思う。


遠い夏に想いを-学士院  この橋を渡りながら、ふと後ろを振り返ると、お世辞にも美しいとは言えないフランス学士院のドームが目に飛び込んでくる。建物は17世紀と古い。ここには学士院の一部門であるアカデミー・フランセーズが入っている。アカデミー・フランセ-ズの生みの親はルイ13世時世の宰相リシュリュー枢機卿である。17世紀のコルネイユから21世紀のレヴィ・ストロースまできら星のごとく物凄い数のフランスの文化人が会員になっている。


 しかし、フランスの知性(?)と呼ばれる頑固な老人どもがこのアカデミーを牛耳っており、フランス語の劣勢に、何かと英語に噛み付く。正しいフランス語を守るとか何とかいって、かって、70年代に「広告に英語を使ってはならぬ」とおふれを出し、フランス広告界のみならず、一般社会にも問題を引き起こした。言葉は建築と違って生きているものだから、保守的に守ろうとしても意味がない。言葉は文化とすれば、文化は国力の反映だから、フランスが伝統を傘に栄光を守ろうとしても徒労に終わる。


 日本でも1935年に国語審議会なるものが出来た。1949年に「当用漢字表」なるものを発表した。いわば漢字の制限である。大変結構なことだが、漢字の使用は減るどころか、今では漢字表記はあてどなく広がり、漢字検定XX級とかいって、漢字ブームが起きてしまった。これも日本人が大好きな資格制度のせいだが、上級になると当て字みたいな漢字ばかりで、一種のクイズと化している。かって国語審議会でもいろいろと紛糾したらしいのだが、何に一つ抜本的な計画や対策をだせない。言葉は生きているからだ。


 世界中で漢字を使っているのは日本と中国だけなのに、何故漢字に拘るのか。漢字の呪縛から永久に解き放たれないのか。漢字をなくするには外来語をカタカナで表記する方法しかない。現に女性誌やデザイン・コンピュータ関係などはカタカナの氾濫である。こと流れ主義の日本よ、何も出来ない国語審議会よ、バインザーイだ。