7月14日の革命記念日は11時頃からコンコルド広場を中心にパレードがある。空にはゴーゴーと空軍の戦闘機や輸送機が飛んで行き、シャンゼリゼには陸軍の歩兵師団が整然と行進する。チュイレリー公園付近では仮説スタンドが設けられ、政府のお偉方が並ぶ。あの頃、我々も3人で行進を見ようとチュイレリー公園へ出かけたものの、余りの人だかりで背伸びをしても後方からでは群集の頭が見るだけで、行進は一部しか見えなかった。仕方がないので、チャオを肩車にして何とかしのいだ記憶がある。
左岸を歩いて、オルセー美術館まで来た。もとは1900年のパリ万博に向けて建てられた駅舎だ。
暑い。朝夕は温度が低いが、昼を過ぎるとさすがに温度は上がる。喉が渇いたので、美術館脇のリル通りに面した小さなカフェの店先でコーヒーを飲む。狭い車道に丸いテーブルが突き出るように置いてあり、ここに座って向いのオルセーを見上げた。
あの頃はまだ、『ケ・ドルセー(Quai d'Orsay)』(セーヌ左岸の道路名だが、外交の代名詞となっていた)という言葉がまだ意味のある響きをもっていた時代だった。当時、パリで頑張っていたカナダのマークの外交官になりたいという夢が、ノッコの仏語で仕事がしたいという夢が、アメリカ留学の帰途パリで抱いていた自分の若い頃の夢が、タイムスリップしたように思い出す。
しかし、当時オルセー駅は使われておらず、遮蔽用の囲いで隠されて、内部は暗くて音もなく、通りには人影がなかった。昼間でも日差しが当たらず、薄暗くて、寂しい処であった。
当時、オルセーには入れなかったので、せめて内部だけでもひと目見ておきたいと、立ち寄ることにした。オルセー美術館の天井にはガラスの空間が広がる。正に駅そのものだ。しかも何と美しくて優雅な駅なのだろう。過去には何度か取り壊しの意見があったらしいが、1970年に政府によって保存が決められ、1986年に美術館としてオープンしたのだが、何故それまで閉めきったままで、活用しなかたのだろうか。日本人なら、美術館は思い付かないだろうが、せめて体育館にでもしただろうに。
中央に大きなアールヌーボー風な時計が置いてある。ここが駅だった証拠だろうか。内部は無数の仕切りで囲まれ、美術館というより、何か展示会でも催されている雰囲気だ。何となく絵の展示が駅のコンコースの空間にマッチしていない。美術館として体をなしていない。まあ、文句をつけても始まらない、この美術館計画のお陰で取り壊しは免れたのだから。おまけに、日本人が大好きな印象派の絵画の宝庫になったのだし。1時間ほどでオルセーを出て、リル通りを東に歩く。500メートルほど行くと、左側にホテル・ベルソリーズ・サンジェルマンがある。
ミネソタの遠い日々
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