東日本大震災から1年半経った。被災地はともかく、日本が通常の生活に戻るには、ハード面はともかく、人々のメンタル面についても何年もかかると思ったが、東京で生活している分には、それは過去の話のようになってる気がする。もちろん、家族や知人、大事な人を亡くされた人、実家が未だに復旧のめどが立たないという困難に直面している人も居るだろうが、毎日の慌ただしい仕事の中で、次第に震災が追いやられている気がする。TVは、いつの間にか、いつもの総バラエティ色にもどり、震災関連のニュースも少し。実際に東北地方がどう復興して行くのかという地図はTV、新聞からは窺い知れない。
昨年、勤めている会社の方針で、被災地に散乱する膨大な写真の洗浄作業と言うボランティアをさせていただいた。その他に何もしていない自分にもどかしさを感じていた。
また、震災直後の被災地が、全て、TV局のフィルターを通しての映像であることが歯がゆかった。被災地の惨状をTVで見て心を痛めた人は世界中何億人も居るが、事実は、遺体や人の体の一部が、倒壊したり流されてきた物がいっしょくたになり、その中で途方に暮れる生き残った人々が居たはずだが、TVで流されたのは、単に自然の驚異を伝える映像だけ。もちろん、心を痛めた人の心情は嘘ではないが、私たちは真実を見ていないと言う負い目を、これからも持ち続けるだろう。
震災直後の情景ではないが、自分の肉眼で見ることが大事。そんな意味もあって震災ボランティアに参加した。
2泊3日。あるボランティア団体の募集に参加した。現地までの交通費、装備は自費、保険等も含めた参加費も払う。これはリーズナブル。大阪からの参加者も居たが、九州、四国からの参加となると、交通費、時間がすごくかかる。ボランティアは無償だが、0円ではなく、むしろ、多くの出費が必要。今回は、宿泊所が用意され、お風呂もある。食事は自分で調達だが、震災直後の何も無いベースキャンプでなく普通の住宅地の家なので回りには、コンビニも飲食店もある。
災害が起こり、居ても立っても居られなくなり、ボランティアとして参加したいと思っても、身一つで行くには大変。震災直後も、自己責任、自己完結が大前提で、時間、費用、そして、大きなリスクを覚悟の上で参加することになる。
その大きなリスクにもかかわらず、震災直後に現地入りした人たちには、本当に頭が下がる思いがする。阪神大震災以降、こういうスキルが日本人の中に確実に蓄積していると言うことなのだろう。ただし、まだまだ、一部の人間なのだろう。
自己責任、自分も、まずはケガしたり、腰を痛めるとか、トラブルを起こさないと言うのが、一番最初に考えたこと。ケガをすると、仕事もできなくなり、生活が成り立たなくなる。サラリーマンは、そんなことを考えて、ボランティア活動に及び腰になるかもしれない。今の経済状況であれば、なおさら、仕事に汲々となり、ボランティア活動なんて、考えることも無いだろう。あるいは、私のように心の隅にずっと引っかかったまま働いているかもしれない。サラリーマンと比べると、まだ、大学生の方が、向う見ずと言うか、純粋と言うか、思い切りがいい。参加者の中には、ネパールでも同じ活動をしていると言う学生も居た。
第1日目は、仙台から北に進み、日本三景松島を越えた東松島市野蒜地区。かんぽの宿、青年の家、総合運動場を抱えた一帯は、干拓地を利用したリゾート化が進んでいたが、今は、水が退かず、広大な土地が水没し、一部の建物は、湖面に浮かぶかのように取り残されている。セイタカアワダチソウが繁茂する原野には、地震に強い家がぽつんぽつんと残っている。しかし、角度を変えて見ると、あり得ないようの大きな穴があいていたりする。ほとんど損傷が無いような家であっても、近くにスーパーも学校も無くなれば、生活しようがない。1件の家、1本の道路ではなく、コミュニティそのものが復活しなくては、復興したことにはならない。その地区のコミュニティをどうさせるかという青写真が無ければ、そこに戻って、家を建てなおし、子を産み、生きていこうということにはならないだろう。その青写真を、うまく描かれずに居るのが行政だろう。新築や改築の基準、地区ごとの線引きの説明が不十分と言うのも聞いた。
ボランティアの作業をしながら、そんなことも考えさせられた。
第2日目は、逆に仙台から南に、水に浸かった仙台空港がある平野。名取市閖上地区二行った。前日の仙台より北に向かう、塩竈、松島、石巻は、海岸線が入り組んだ所。各々の入り江には津波の破壊力が集中し、かなりの高さの所まで波が迫ったが、水は一部の地盤沈下した所をのぞいて退いた。しかし、仙台南部は逆に広大な平野、遮る物の無い平地を津波は最深部で6キロも内陸まで達した。海岸線に作られた堤防を津波はいとも簡単に越え、真っ黒になった波は次々に家々を洗い流して行った。そこは、広大な荒れ地、全壊を逃れた住宅がぽつりぽつりと寒風の中にたたずんでいる。その家も、違う角度から見れば、大きな穴が空いていたり、住むことはできない。はるか海岸線では、堤防の補強工事のため、大きなダンプカーが走り回っている。道路脇の荒れ地を見ると、雑草の中にブロックの境界線がある。それが、元住宅地の境界線と教えられたが、辺り一面は、これから造成する整地途中の住宅団地という様相。本当は、1年半前まであった住宅団地が全て洗い流されたとはどうしても想像できなかった。
私たちが作業した閖上地区に唯一こんもりと隆起した鎮守の森というか鎮守の丘である日和の丘は、閖上湊神社の社も全て流されたが、松のみが今もが隆々と茂り、この地区の復興のシンボルとなっている。ここで、この地区のコミュニティスペースに使うベンチを制作した。各家を立て直すことも大事だが、公民館やその地区の人が集えるような建物も実は重要で、そういった物の建設は優先順位が低く、そのため、ボランティアが活躍できる要素があると言う。
この日和の丘周辺をGoogleマップ等の地図アプリでひらくと、震災前のデータのままで、そこには、ぎっしりと住宅が立て込んでいる。しかし、目の前には只雑草の生える原野があるだけ、それもどこまでも続く。あらためて津波の凄まじさを感じた。
ボランティアから帰って、翌日、奇しくも、仙台を訪れていたウィーンフィルの団員が、この日和の丘の頂上で鎮魂の演奏をしたことがニュースで取り上げられていた。残念なことに、映像は演奏する団員が中心だったが、その周りに広がる広大な荒れ地は、ほどんと映されなかった。
お昼は、午後から作業予定のこの近所の地区の公民館で、婦人会の皆さんが芋煮汁をごちそうしてくれることになった。午前中寒風の中の作業だったので、冷えた体に芋煮汁は、最高においしかった。20人くらいの婦人会の人と、区長さん、それを取材に来た地元コミュニティ紙の記者でおいしく食べさせてもらった。ある方に伺うと、この地区は60件くらいの世帯があり、今家を建て直したのは7軒のみ。ただし、定期的に、こういった集いがあり、みんなの元気な顔が確認できるという。半分はまだ修理中で使えない公民館だけど、そして、家はまだまだだけど、こうやってコミュニティそのものが生き返って行くのを感じた。前日には感じなかった、行政を当てにしなくとも、蘇って行くコミュニティの生命力がそこにあった。
活動の具体的な内容はボランティア団体のこともあるので控えましたが、自分の目で見る、感じる、考えるそれは、震災から1年半経った今でも、そしてこれからでも遅くないと感じました。観光で訪れることも重要な被災地への貢献。そこで、自分の目で見て感じ、そして考えることが大事。今からでも遅くないので、足を運んでいない人は、被災地に行ってみてはどうでしょう。