『風濤』 | 元広島ではたらく社長のblog

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六本木ヒルズや、ITベンチャーのカッコイイ社長とはいきませんが、人生半ばにして、広島で起業し、がんばっている社長の日記。日々の仕事、プライベート、本、映画、世の中の出来事についての思いをつづります。そろそろ自分の人生とは何かを考え始めた人間の等身大の毎日。

井上靖「風濤」新潮文庫を読んだ。


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「風濤」の舞台は、日本だと鎌倉時代の元寇の2度の役ごろの朝鮮王朝。その時代は高麗で、KOREAの語源となる王朝。そのころ中国では、チンギスハーンの勢力が拡大し、まごのクビライの時代になり、国号を元とし、漢民族の王朝南宋は風前の灯という時代。高麗は、長年の戦いで、国力は疲弊し、ようやくここに至って、降伏を決める。高麗と高麗の民の苦痛はさらにここから始まる。フビライの苛烈なる要求、日本征討の準備、この要求を耐え忍ぶ、元宗、忠烈王の高麗王朝二代がこの小説の主人公。

日本の戦国時代や、ローマのカエサル、ナポレオンを描いた歴史小説と違い、クビライからの要求に一喜一憂する朝鮮王朝の小説は何とも退屈だ。(元寇の戦闘シーンも出てこない。)さらにそんな時でも、国の南部で反乱を起こすもの、朝廷内のまつろわぬものなど、内紛もしっかりやっている。近代朝鮮でも、日本、ロシア、清国の圧力のかかる中、開国をめぐる内紛がなければ、その後の歴史は大きく変わったであろう、と思わざるを得ない。内紛は、朝鮮の歴史のお家芸なのか、退屈なうえに、釈然としない小説なのだ。

世界各国の国民性をいう時に「大陸人」「島国」「半島人」といった区分をすることがある。「島国」の代表は、日本やイギリス。周りは海、これ以上どこへも行けないので、種々雑多な人がいても、基本的には「和」を尊び、あまり主張しない控えめな国民性になる。少々の不満は内にためたりする。日本人の「礼儀」「遠慮」「謙虚」イギリス人の「ジェントルマン精神」など共通する部分かもしれない。ただし、その内にためたエネルギーが爆発することもある。帝国主義時代の外に膨張する力はすさまじい。

一方、大陸人は「無法者」「おおらか」「野放図」という粗っぽい性格が代名詞。一つの国で失敗したり、何かをやらかしても、地の続く限り逃げおおせれば、やり直しがきく。少々無法をやっても、別の場所には、別のルールの別の国がある。人生再スタートが切れるということが、そのおおらかさにつながっている。電車やバスの時間がルーズなのは、こんなところにあるかもしれない。島国なら、限りある土地、限りある耕作地、「限りある」に迫られて人生を送っているかもしれないが、「大陸人」はそうでないようだ。

では、「半島人」は?半島人も、その先は海という「限りある」状態には違いないが、常に「大陸人」に悩まされている。日本も朝鮮も中華文明圏では「辺境の民」。朝鮮の中国との接触度合いは、日本の比ではない。常に、大きな波、小さな波がやってくる。「限りある」中で「和」を尊ぶ者もいれば、外部勢力のつけ入るすきを与えるにもかかわらず、内紛に明け暮れる「内なる大陸人」もいる。

そんな小説の中に、王の信任暑い2人の臣がいる。文武の両刀の李蔵用と金方慶。老いてなお、王のため王朝のため、身を粉にして尽くす2人の忠臣はの労苦は、敬意に値する。李蔵用は、クビライの意図を正確に見抜き、最初の引見の好印象に捉われている元宗に楽観論を許さず、常に最悪の事態を避けるため内政を引っ張る。金方慶は、無口で、朴訥な性格ながらも、内乱の鎮圧、元都と開京の往復、元宗の子忠烈王にも信頼される武将。クビライにも信用され、宋の降将よりも上 座を与えられる。度重なる戦争で、若者が死に、国民が逃散し、日本征討のため、軍船、軍糧、武器の徴用で、財政が傾いているのは、人口減少、財政どん底の、今の日本に通ずる。さらに御大層なことに、政党同士のいがみ合い、与党民主党内にあっても、政争を繰り返すところまで似ている。この国難にあっては、日本にも李蔵用と金方慶のような人が必要なのかもしれない。新財務大臣、与謝野さんは李蔵用になれるか?

信長や竜馬の派手さはないが、こういった人ほど評価される歴史を持ちたい。

さて、こういった評価を後の世でされる人は出てきますか?総理殿?