山本周五郎の小説「赤ひげ診療譚」は、あまりにも有名で、映画、時代劇にもたびたびなっている。小説を読んだのは初めて。
歴史上の人物よりも、江戸の名も無き市井の人たちを情感細やかに描くのが、山本周五郎の真骨頂。軽妙な会話は落語のようで、どこかおかしく、どこか物悲しい。
テレビの時代劇に出てくる江戸の町は、それが日々の生活に困窮する貧乏長屋であっても、どこか清潔で整然とし、人々も明るく振舞っている。しかし、経済的に困っていれば、いい生活はできず、病気やケガをしても医者にはいけず、病気やケガを抱えては満足な生活は送れないという悪循環に陥る。本当は汚物の悪臭や、湿気がぬけず、寄生虫が常に健康を脅かす、そんな不衛生が常態であったはずだ。
「貧乏だけど=明るく楽しく生きている」という図式は、時代劇を見慣れた、現代人が描く勝手な夢想でしかない。そして、この不衛生と貧困と病気の悪循環は、今も世界中の貧民窟で繰り返されている。
「赤ひげ」こと新出去定(にいできょじょうと読む)と、助手の保本登がこの物語の主人公。教科書で習う、江戸幕府が作った経済的に困窮している人のための「小石川療養所」。そこが、物語の舞台。名前は教科書に載っていて、よく聞くけど、どのような運営をしているかは不明。
以前、幕末から明治期の医者、高松凌雲うぃ描いた『江戸の雷鳴』のブックレビューで彼が、フランス留学で知った、貧乏な人を対象とした病院『神の館』に感銘し、自身も、明治期に、経済的に医者に通えない人を対象とした『博愛社』を起こし、後の日本赤十字にその活動が継承されたとあるから、小石川療養所は、明治維新とともに、役割を終わったようだ。ただし、財政的にはやはり常にきびしかったようだ。貧困と医療は未来永劫の社会テーマのようだ。
小説の中で、新出の発案で、療養所内は、畳を引かず、板張りにしていることの説明がある。
日本の家屋に畳を引く習慣ができたのは元禄年代ごろ。それまでは、板敷きに寝る時のためにマットレス替わりに使うくらいだった。しかし、畳が庶民にも普及し、室内は全部畳敷きになった。ただし、畳は維持するのが大変で、定期的に、掃除をしたり、日干しにしたり、繕ったり、買い換えたりしなくてはいけない。それができるのはお金持ちだけで、長屋暮らしの貧乏人は、買ったきり何十年も敷きっぱなし。日本の湿気の多い気候では、畳はいつも湿っていて、ほつれたところからは塵埃を撒き散らし、ダニや蚤の格好の住処となっている。本来は、板敷きの間が、日本の気候には合理的であったはずなのに、農業生産性があがり、商品流通が活発化した江戸期。庶民も畳が一般化していくが、やはり貧乏人には、負の部分が降りかかり、労咳や他の病気を引き起こしていく。
板敷きのことや、医員が着るたっつきにも診療するための合理性があるのだが、赤ひげは、ちゃんと説明しない。長崎留学から帰り、いよいよ出世街道をはしりだそうとした矢先、小石川診療所に放り込まれた保本は、さまざまなことに反発する、が、次第に「赤ひげ」の心情、医に関する合理的で、先取の考えを理解していく。医は仁術。患者に対して心優しいだけではない。赤ひげ自身も洋学を志し、師の意向に逆らい長崎で蘭医を学んだ秀才。医の技術も一流。
山崎豊子の『白い巨塔』は、真の医を振り返らず、大学病院の権力闘争を描いたもの。医の道を志すも、「赤ひげ」に出会わなかった人たちの話。
赤ひげは、人々の病気について「治るものもあれば、治らないものもある」「人の生き死にまでは医者は関知できない」とするも、貧困や無知の問題が解決されれば、死ななくてもいい命がたくさんある、という。「医」をめぐる問題は、医の技術だけでなく、社会の問題である。医療の技術が格段に進んだ現在であっても、人の精神は、年相応にしか発達しない。あるいは、今の社会には、精神年齢の低い人間のほうが多いかもしれない。「医」にまつわる問題は今も昔も変わらない。
「赤ひげ」の登場人物は、山本周五郎小説の、いつもの表現ながら、落語の登場人物のように、明るく、ずるく、けなげで、どうしようもない人たち。それが、悲しいくらい生活に、社会に振り回され、不幸なのだが、涙の中にも、ほほえましさが見え隠れする人たち。
また、江戸の町の人に会いたくなったら、周五郎小説を読もう。
