『夜明けの雷鳴 医師高松凌雲』 吉村昭 文春文庫を読んだ。
幕末の幕臣で、医師の高松凌雲の物語。
筑前藩、今の福岡県小郡市の庄屋の次男に生まれた凌雲。庄屋修行、久留米藩家老の養子として武士を目指すも、最後は先に江戸に飛び出していた兄を見習い医家の道に。厳格な身分制度があったと思われる江戸時代だが、能力のあるものは、案外融通がきき身分を超えて昇進していく。特に幕末の混乱期、優れた能力を持つものは、農民の子であっても、幕臣に抜擢された。学問がその人の人生と、国家が時代を切り開く幸せな時代だった。今、学問にそこまでの力があるだろうか?
蘭語と英語、緒方洪庵の元で蘭医学を修めた凌雲は幕府の医師となり、折からフランスの万国博に招待されていた徳川慶喜の弟水戸藩主昭武の随医として欧州に同行する。
混乱期にあり、自分の将来をあれこれ迷ったあげく、進んだ医家の道でやっと自分探しを終えた凌雲。そしてさらにフランスで「医の技術」と「医の精神」を学ぶ。凌雲が学んだ病院は「神の館」といい、貧しいものに対しては無料の施術を行っていた。この「技術と精神」が、後の凌雲に大きな影響を与える。
新しい学問で切り開いた道だが、故国で徳川幕府崩壊の報を聞く。日本に帰国した凌雲、旧主慶喜にたいする新政府の過酷な仕打ちと、薩長を主力とする政府軍を認めない徳川の徹底好戦派に身を投ずる。江戸に出ていた末弟六郎と榎本艦隊に合流し、兄佐久左右衛門とも戦場で再会する。一足違いで一橋家に再奉公が可能となったが、すでに合流すると約した戦場への道を選んだ。
兄弟は、いずれも修めた学問ではなく、徳川への恩顧のために身を捧ぐことを決意する。
今学問をするする人間は、あくまでも自分のため。遺伝子工学や、特効薬開発は、製薬会社の金儲け主義しだい。名誉名声のため平気で論文をねつ造する大学教授もいる始末。明治人や、武士と現在人を比較すること自体かわいそうだが・・・・・。
凌雲は、戊辰戦争の激戦地、函館に乗り込む。そこで、フランスで修めた西洋医術の力量が買われ、函館病院の運営を榎本に一任される。東京湾出港時には一大艦隊であった榎本軍も、相次ぐ政府軍との戦闘で、沈没、座礁し、とうとう五稜郭、その他砦にに立てこもるに至る。政府軍の乱入により、たとえ病人けが人であっても、命の保証ができない函館病院にあって、凌雲は、無抵抗主義を貫き、幸運にも、薩摩の隊士の理解を得、病人けが人を治療し続けることができた。榎本軍はついに降伏し、凌雲も治療を続けながら、最後は東京に護送され、徳島藩預かりの寛大な刑ですまされる。
その後は、一橋家、水戸家との交流を持ちながら市井の医師として生涯を送る。凌雲は、官より再三の誘いを受けるが、徳川恩顧の、そして函館の戦で死んだ兄や、仲間を思ってか、政府の顕職にはつかなかった。
そして、フランス留学時の「神の館」にならい、「同愛社」という、貧しい人への無料診療事業を開始する。同愛社は成功し、医師のみならず、フランスの「神の館」同様、資産家や一般の人の寄付も受け隆盛していく。一般会員には、フランス留学時の同僚渋沢栄一、函館戦争後政府要職に就いた榎本武揚も名を連ねた。
現在、同愛社はないが、赤十字をはじめ、同じような組織は数多くある。学問で建てた道と、徳川への変わらぬ忠誠、そしてフランスで学んだ医の技術と、精神が、いまも社会に息づいている・・・はずなのだが。
あいかわらず明治人は、日本の歴史の中で、輝いている。
