吉村昭さんの『彰義隊』新潮文庫を読んだ。
吉村昭さん、最晩年の作品。江戸幕府が朝廷軍に降伏し、江戸城を明け渡したのちも、幕府に恩顧を感じる武士が上野寛永寺に立てこもり、無法地帯と化した江戸の市中警護を受け持ったが、解散を迫る政府軍とついに武力衝突となった。圧倒的な兵器の差、兵力の差で迫る政府軍に、彰義隊のこもる寛永寺は、1日で陥落する。
あとがきによると、東京は日暮里の生まれの吉村さん。上野から、日暮里、根岸方面(東京のこの辺の地理はよく分からないのだが)には、朝廷軍に負けた落人が、三々五々北に落ちていく。子供のころより、お年寄りから上野の戦争の話を聞いていた吉村さん。いちばん身近でありながら、なかなか書けなかった上野の彰義隊を、最後の最後に書くことができた。なかなか書けなかった彰義隊を書く気になったのは、明治天皇の伯父にあたり、代々寛永寺貫主を務める輪王寺宮に出会ったため。輪王寺宮は、皇族でありながら、徳川喜慶の助命を願うも受け入れられず、上野の戦い後は、わずかの供と共に、江戸に潜伏、榎本の艦隊と接触後は、奥羽列藩同盟が抵抗する東北に落ちのび、会津、仙台と流浪を続ける。
皇族でありながら、反朝廷の首謀格になってしまったのは、喜慶の助命を朝廷軍に冷たくあしらわれたことばかりでなく、京都から遠く離れ、徳川体制の中でできた関係とはいえ、上野の周辺に住む人と宮との交流が、政府軍に踏みにじられたことに対する反動であると、吉村さんは解釈する。上野から逃亡する宮を、逃亡路にあたる村の有力者は必死に守る。逃亡が成ったあとも、政府軍には黙秘を続ける人々。
討幕、佐幕、政府軍、朝廷軍の関係なく、人のつながり、義、というものが、宮に苦難の道を歩ませたのかもしれない。
戊辰戦役後、降服、謹慎がとかれて後の宮は、”反朝廷”の汚名をそそぐべく、ドイツに留学、軍学校を出、軍の道で、汚名をそそぐべく生きることを決意する。そして、北白川宮能久親王として、日清戦争後の台湾征討作戦中に軍陣に病没する。国葬が営まれ、ここにやっと、“朝敵”の汚名を返上する。
吉村さんの歴史小説は、司馬遼太郎の歴史小説とも違い、
将軍のお膝元ではあるが、代々天皇の子供である親王が座主を務める上野寛永寺、
