『流れる星は生きている』 藤原てい 中公文庫を読んだ。
正月に『八甲田山 死の彷徨』を読んだ。『風林火山』等で有名な作者の新田次郎の奥さんが、藤原ていさんである。息子さんの藤原正彦さんは、一昨年のベストセラー『国家の品格』の著者で数学者。
『八甲田山 死の彷徨』のレビューは又書くとして、正月、実家で古い本を整理していると昔、親父の本棚にあった『流れる星は生きている』がでてきた。変色した昭和52年の版のもの。その頃は不思議なタイトルの本だなあと思う程度で自分が将来「あんな小さい文字だらけの本」を読むことになるとは思っていなかった。
しかし、『八甲田山 死の彷徨』に感銘を受け、奥さんの書いたこの本を、すぐに手に取った。
藤原ていさんは、昭和20年8月15日太平洋戦争終戦を、満州の新京で迎える。夫が、当時の気象庁の満州の観象台に勤めており、5歳の長男正広、2歳の次男正彦、生まれて間もない長女咲子の親子5人は、迫り来るソ連軍から逃げるために、着の身着のまま遥か南の日本を目指すことになる。まだ残した仕事を片付ける夫と別れ中国朝鮮国境の宣川まで汽車で逃げる。8月18日もう会えないと思っていた夫が追いつく。中国、ソ連、アメリカが敗戦した日本軍無き後の朝鮮半島で次の布石を打つ中、本国に帰ろうとする日本人と、鉄道や行政システムの崩壊した日本人難民の中で、一家は身動きが取れなくなる。そして8月24日、北緯38度線を境に朝鮮半島は交通が遮断してしまう。
何度か南下できるというデマが起こるが、希望ははかなく消える。一軒家に十数家族が押し込められる生活は窮乏し、お互いをけん制しあう険悪な状況を生んでいた。そして10月28日、18歳以上40歳までの日本人男性は、平壌に連行されていった。シベリアへ連れられるか、中国共産党八路軍の雑役夫となる運命となる。夫新田次郎とも行き別れになる。
この後は母親と幼い3人の子供の死に物狂いの生活が始まる。酷寒の季節。常に飢えにさらされ、また、醜い人間の本性をむき出した人々の中で、恥もプライドもなければ、生き延びるための狡猾な”生”を続けていく。一夜にして立場が変わった朝鮮の人に哀れみを請いながらの窮乏生活が続く。
わずかに列車で南下。足止め難民生活。何度かの繰り返しののち、38度線手前の新幕までたどり着く。親子に辛く当たる日本人も多く、道徳や人間性など通用する世界ではない。親子を見かねて食べ物を恵む朝鮮人は、所々に出てくる。昨日まで我が物顔で振舞っていた日本人。敗戦で180度変わってしまった境遇に同情する人も多く、同国人の非情さと対を成し惨憺たる気分にさせられる。
新幕からは鉄道を迂回し、山中を抜け一路、開城、京城を目ざす徒歩を選ぶ。難民の群れの中、凍死寸前の親子、途中で子供を見失いながらも奇跡的に親子は再び邂逅する。そんな子供たちにも、次の瞬間には怒鳴り散らし、枯れ果てた生きる意志を再びたきつけなくては行けなった。
足がぼろぼろになりながらもやっとの思いで38度線を越え、意識が無くなったところを既に半島の南を支配下においているアメリカ兵に助け出される。
その後は、規則正しい配給と、順番が廻ってくるのに時間がかかるが確実に日本への道が近くなる。鉄道で一気に南下。釜山から博多には船で。博多で検疫待ちの後、鉄道で一気に故郷の信州上諏訪に。急を聞きつけて駆けつけた弟妹そして両親は、そこに居る幽鬼のようなていを見て一瞬立ちすくむが家族はひしと抱き合う。そしてその体の重みをすべて預け、ていの1年にわたる仕事は終わった。
タイトル「流れる星は生きている」は、宣川で仲良くなった朝鮮人の金さんが日本人に昔教わったという歌の一節。物悲しいその歌が彼女らの難民行のお供であった。
この本は帰国後数年後に書かれベストセラーになる。あとがきには、文庫となった30年後の3人の子供の成長も書いてあり、ほっとため息がでる。
語り継がれるべきベストセラーである。今書店に行くと、ひっそりと置いてある。果たして売れているのであろうか?推理小説、サスペンスみたいな本はやたら売れてるみたいだが。
戦後60年以上たち、戦争と戦争の惨禍を知っている人は確実に減っている。直接体験した人間居なくなると日本は又戦争するのかといえば、そんなことはまずないだろう。国家を挙げてする総力戦は、狂信的な指導者でも出現しない限り起きないだろう。ただ、こういう文字からの体験すらしていない日本人が増えている。戦争を体験した人と共感することすらないようでは想像力や思いやりを感じる力は劣化していくであろう。自分ももちろん昨日までこの本は読んでいなかった。読んでからといって何を偉そうに・・・と。誠にそうである。これからも精進し、いろんな人の思いを、生き様を読んで生きたいと思う。
