『戦艦武蔵』 | 元広島ではたらく社長のblog

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六本木ヒルズや、ITベンチャーのカッコイイ社長とはいきませんが、人生半ばにして、広島で起業し、がんばっている社長の日記。日々の仕事、プライベート、本、映画、世の中の出来事についての思いをつづります。そろそろ自分の人生とは何かを考え始めた人間の等身大の毎日。

『戦艦武蔵』 吉村昭 新潮文庫を読んだ。
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3分の2は、三菱重工長崎造船所での建工物語。残り3分の1は、就役から、レイテ沖海戦での壮絶な最期の物語。

泥沼化する日中戦争。ヒトラーの台頭で再びきな臭くなったヨーロッパ。ロンドン、ワシントンの海軍軍縮条約のくびきが無ることを見越し、「巨艦巨砲主義」の究極の戦艦、世界史上類を見ない最大の戦艦「大和」の2番艦として、三菱重工長崎造船所長崎造船所で作られることになった「武蔵」。「大和」が、広島呉の海軍工廠で造られるのに対して、2番艦は、民間の三菱重工のよって造られることになる。未曾有の巨大さから、船を作る船台自体の作成、ガントリークレーンの大型化、ドックの拡張工事、進水時、狭い長崎の湾口で、対岸にぶつからないための方策、さらに、外部からの視線を遮断するための巨大な棕櫚で作ったすだれでドックを覆うという、造船のみでなく、全てを根本から考え出した、当時の世界の技術の粋を集めた壮大な事業。

しかし、その巨大なエネルギーは、憲兵、特高を使った、長崎市中での外国人への尋問や、市民の監視、図面紛失事件で疑われた人間に対する執拗な捜査、国家の最高機密を守るために採られた同国人への理不尽な行為にも及ぶ。


昭和13年3月29日起工。昭和15年11月1日進水。太平洋戦争が始まり、艤装工事後、就役が、昭和17年8月5日。一番艦「大和」に遅れること9ヶ月、文字通りの実戦配備となる。4ヶ月の猛訓練の後、南洋トラック諸島の連合艦隊に合流することとなる。三菱重工という客船を作っていた技術が遺憾なく発揮された豪華な司令官設備により、「大和」から、「武蔵」に、連合艦隊司令部が移されることとなり、司令官山本五十六が乗り込む。博打好きで、ダンディ、人当たりのいい司令官も2ヵ月後には、視察途中の飛行機が撃墜され死んでしまう。最初の「武蔵」の横須賀への凱旋は、何の戦果も無く、山本五十六司令官の遺骨を運ぶこととなる。そして戦局も日本の敗報が続き始める。


只でさえ、重油を多く使い、既に優勢であったアメリカの航空勢力にさらされたくないために、「武蔵」が前線に出ることはなく、呉、トラック、パラオと戦わない日々が続く。その後潜水艦に雷撃を受け、犠牲者を出すも、その軌跡的な能力により、浮沈艦の名を益々現実の物とする。呉で、対空砲火機能拡充し、ハリネズミのような艦となり再び南洋へ。マリアナ沖海戦で、「あ」号作戦に参加。犠牲艦を次々に出し、連合艦隊の編成も縮小し、迎えた昭和19年10月。レイテ沖海戦、「捷」1号作戦に参列。

その目立つ大きさから、アメリカの6度に渡る空襲を受ける。爆弾を10発以上、魚雷を20発以上受けるも、その都度、浸水のよる艦の傾きを修正し、戦列を離れることの無かった「武蔵」も第1次の襲来より9時間後、シブヤン海に沈む。波間に漂い、救助されたものは、全乗組員2399名のうち1376名。海軍首脳部は、「浮沈艦武蔵」の沈没を秘匿するため、生存者中、上級士官等の420名が内地に、途中潜水艦の攻撃により再度、漂流、日本に戻れたのは120名ほど、しかし、世間から隔離された軟禁生活を余儀なくされる。他の200余名も、久里浜で仮収容後再配属。フィリピンに残った生存者はバラバラに他の部隊に編入、爆弾を抱え生身の身体で戦車に突入するなど玉砕の名の殺戮に身を投じる。


吉村昭さんの『陸奥爆沈』にもあったが、当時、日本のシンボルであった戦艦『陸奥』が、謎の大爆発後沈没
し、その事実が広まるのを恐れ、生き残った乗組員を、南洋の激戦地に送り込んだり、特攻で死ぬはずだった隊員が、飛行機の整備不良、敵に遭遇で帰って来た後、具合が悪いので、終戦まで隔離生活を強いたりと、同国人でありながら、生き残ったもの、生きていては都合が悪い者に対する仕打ちは苛烈すぎる。建造中の長崎市民、造船所職員に対する監視、少しでも不振なものに対する尋問も峻烈を極めている。


戦争が悲惨なのは、「戦闘」そのものではなく、戦争の名の下に許されるそういった卑劣な行為や、人間を萎縮、卑屈にさせる不条理な論理なのかもしれない。


今、元幕僚長だった、田母神氏の発言が、問題になっている。田母神氏の本当の意図は、わからないが、一気に話題が収束している。「戦争」と言う言葉に、条件反射的に反応するマスコミの動きだけでは、あの戦争の本当の姿は見えない。私も、戦記物は読むけど、まだわずか。

司馬遼太郎さんが、「坂の上の雲」で、描いたところの、坂の頂上は、人間の叡智の結晶のような戦艦「武蔵」が竣工したときだったのかも。坂の上に来ても、雲に届くはずもなく、戦局、国家、国民全てくだり行く運命が、目の前にあった。


P.S.

そう言えば、戦後、尊敬できる軍人って日本は出ていないなあ。アメリカみたいに定期的に戦争をし、活躍の場を与えていないと目立たないかもしれないけど、だからこそ、平和な日本で尊敬できる軍人が沢山出てきてもいいと思う。平和な国での軍人の在り方というものも。